第76話:大きくなる命と「完全保護」の厳命
建国4年、春。
凍てつくような冬の風がようやく息を潜め、オハイオ川のほとりにも柔らかな陽光が差し込む季節がやってきた。
帝都の中枢、分厚いコンクリートと鉄筋で守られた統治局の最上階。
執務室の窓から差し込む光を背に、アナヒータは静かに書類の束を整理していた。
「九条様。本日の決済書類はこちらにまとめておきました」
透き通るような声で報告する彼女の姿は、建国当初と変わらず凛としている。
「それと、帝国の外……オハイオ川のさらに上流や、北方の巨大な湖の周辺に住むという遠方の独立部族から、交易や帰順を求める請願書が数件届いております」
アナヒータは、整理された束の中から数枚の植物紙を抜き出した。
「徒歩圏内にいた近隣の部族は、すでにすべて我が帝国に吸収されるか、先の反乱で消滅しました。帝国の異常な豊かさの噂が、中継交易などを経て遠方まで届き始めているようです。彼らの使者の言葉は、当然ながらまだ帝国の基準に達していませんので、すべて私の方で『帝国標準語(ローマ字)』に翻訳し、意図が分かりやすいように要約しておきました」
「……ああ、ご苦労。助かる」
九条蓮は、ペンを動かしていた手を止め、報告を続ける彼女のシルエットに視線を落とした。
ゆったりとした衣服の上からでもはっきりと分かるほど、彼女の腹部は大きく膨らみ始めている。
『……命だ』
客観的で、冷徹な計算のみで世界を構築してきた九条の頭脳に、理屈ではない感情が波紋のように広がる。
つい数ヶ月前、冬の入り口で起きたスラムの反乱。
もし、あの時、わずかでも防衛線が突破されていれば。
もし、この部屋まで暴徒がなだれ込んでいれば。
失われていたのは、目の前の愛する妻と、まだ見ぬ我が子だった。
そう思考した瞬間、九条の背筋に、氷のような悪寒が走った。
現代の倫理観などとうに捨てたはずの彼の中に、これまで感じたことのない種類の「恐怖」が産声を上げていた。
「……アナヒータ」
「はい。何でしょうか、九条様」
「今日から、君の業務を完全な非同期型のマニュアル処理に移行する。この統治局の執務室への立ち入りも、当面の間は禁止だ」
アナヒータの目が、わずかに見開かれた。
「それは……私に、仕事を休めという事ですか? 私の体調なら全く問題ありません。それに、私が抜ければ、各部署間のシステムにわずかなタイムラグが生じます」
完璧な第一秘書としての矜持。
彼女は自分の役割の重要性を誰よりも理解しているからこそ、食い下がった。
だが、九条の決定は覆らない。
「システムのタイムラグなど、いくらでもカバーできる。それよりも……」
九条は立ち上がり、アナヒータの前に歩み寄ると、彼女の肩にそっと手を置いた。
「俺は、お前と……その腹の子に、万が一にもリスクを背負わせるわけにはいかないんだ。これは総司令官としての命令であり、……俺個人の絶対的な意思だ」
冷徹な男の瞳の奥に宿る、微かな焦燥と、底知れぬ愛情。
それを読み取ったアナヒータは、ふっと表情を和らげ、小さく微笑むと静かに頭を下げた。
「……承知いたしました。私でよければ、あなたの創る安全な場所で、この帝国の未来を見届けさせてください」
***
同時刻、機械R&Dの本工房。
ガシャン、ガシャンと規則正しい金属音が鳴り響く。
かつては真野とチャパだけで切り盛りしていた工房も、今や厳しい選抜を潜り抜けた50名を超える直属の部下(弟子)たちが、何台もの旋盤の前に立ち、油にまみれながら作業に没頭していた。
その喧騒の中、重低音を響かせる大型旋盤の前に立とうとしたエルワの腕を、真野巧が強引に掴んで引き戻した。
「あかん。そこまでや、エルワ」
「真野さん……? どうしてですか。このシリンダーの研磨は、私がやらないと……ミクロン単位の精度が出せないはずです」
不思議そうに首を傾げるエルワ。
彼女の腹もまた、アナヒータと同様に新しい命を宿し、丸みを帯びてきている。
真野は、苦虫を噛み潰したような顔で、エルワを旋盤から引き離した。
「アホか。そんなデカい腹抱えて、鉄の粉舞い散る工房におれるかいな。万が一、機械に巻き込まれたり、転んだりしたらどないするんや」
「でも、金属が……まるで生き物のように動くのを、一番近くで見ていたいんです。あなたの手が描く図面を、形にするお手伝いがしたい……」
懇願するようなエルワの瞳。
彼女の持つ「神の指先」――研磨剤と手のひらの感覚だけで絶対平面を創り出し、1ミクロンの狂いすら感知する能力は、現在の帝国の重工業にとって文字通りチート級の不可欠な要素だった。
彼女を現場から外すということは、精密加工の歩留まりが絶望的に落ちることを意味する。
『分かっとる。頭では分かっとるんや……。せやけど……!』
真野は、ギュッと拳を握りしめた。
あの反乱の夜。重工具を握りしめ、工房の扉の向こうに迫るかもしれない暴徒の気配がフラッシュバックする。 身重の妻を守るためなら、自分はなんだってする。歩留まりの低下など、知ったことか。
「……すまんな、エルワ。俺のわがままや」
真野は、少しだけ乱暴に、しかしひどく優しくエルワの頭を撫でた。
「これからは、俺とチャパ、それにここに居る50人のバカ弟子どもで、泥臭く油まみれになって意地でも精度を出したる。やからお前は、一番安全なコンクリートの部屋で、ゆっくり休んどれ。……俺の子供を、無事に産んでくれ」
エルワの瞳からぽろりと涙がこぼれ、彼女は静かに真野の胸に顔を埋めた。
***
その夜、帝都の中心に位置する堅牢な要塞区画の会議室。
建国メンバー6人が集結していた。
机の上には、蒸留酒のグラスではなく、分厚い設計図や工程表、そして各セクションからの報告書が無造作に広げられている。
「……ということで、身重の妻たち、アナヒータ、エルワ、シラ、マヤ、リナ、ゼナ、カーラ、ティオ、ヨナ、ルル。この10名の現場立ち入りおよび労働を、本日から『完全禁止』とする」
九条の冷徹な宣言が、コンクリートの壁に響いた。
「異議はないな?」
「当たり前だ」
鬼頭が鼻を鳴らし、机に置かれた青銅の薬莢を指で弾いた。
「俺の火薬庫周辺にゼナたちを近づけるわけにはいかねえ。万が一の引火や、あのスラムのゴミ共みたいなのがまた湧いて出た時、逃げ遅れたらどうすんだ。俺のガキに傷一つでもつけたら、世界を灰にしてやる」
「あー……俺も賛成だけどさ」
東が、気怠そうに首の骨を鳴らした。
「マヤとリナが現場を離れると、俺の身の回りの世話と生活マネジメントのシステムが完全に崩壊するんだが。……まあ、俺がしばらく自分で動くしかねえか。クソ、サボれねえ」
文句を言いながらも、東の目には、これから生まれてくる自分の子供を守るための確固たる決意が宿っている。
「ガハハ! みんな、過保護すぎるんじゃねえか?」
郷田が豪快に笑った。
「ティオなんか、『つわりなんて気合いで吹っ飛ばす!』って言って、今日もスコップ持とうとしてたからな。力ずくで安全圏に押し込んでやるのに苦労したぜ!」
笑っている郷田の目も、決して笑ってはいなかった。
6人の男たちは、皆、同じ恐怖を共有していた。
現代社会の倫理観など、とうの昔に捨て去っている。
だが、自分たちの血を分けた脆弱な赤子と、それを身ごもった妻たちへの執着は、彼らの中に異常なまでの「パラノイア(偏執狂)」を育てていたのだ。
「妻たちを現場から隔離するとなれば、各所で人手不足の歪みが出る。……だが、それを補って余りある報告もある」
冴島が、眼鏡の位置を直しながら一枚の報告書を差し出した。
「東とゴリ押しで進めていた、ハーバー・ボッシュ法……空気から合成したアンモニア肥料の広域散布テストの結果が出た。土壌の窒素固定化が劇的に進んでおり、今年の麦の収穫見込みは、従来の4倍から5倍に跳ね上がる」
「つまり」
九条が冴島の言葉を引き継ぐ。
「帝都の人口がこれ以上爆発的に増えようと、食糧問題は完全にクリアされた。同時に、これまでの非効率な農作業に割いていた人員を、大幅に削減できるということだ」
「それに加えて、だ」
郷田が、ニヤリと笑いながら身を乗り出した。
「俺が単独で先行して稼働試験を強行してた『油田プラント』だが、今はもう完全に本格稼働して全開で回ってるぜ」
これまでも帝都の分留設備だけで十分な量の燃料は精製できていたが、油田の直下に巨大なプラントが完成したことの意味は、単なる燃料の増産だけではなかった。
「現場での精製が本格化したことで、原油の余計なカスごと運ぶ必要がなくなったんだよ。精製済みの『軽油』と『重油』だけを専用タンクに流し込んで運べばよくなった。おかげで、往復するオイルタンカーの便数を大幅に減らせる」
郷田は拳を握りしめ、力強く机を叩いた。
「タンカーの運航や荷下ろしに張り付いてた船乗りや労働者どもが、ごっそり浮いたってことだ! この余剰労働力は、でかいぜ」
「……完璧なロジスティクスの最適化だ」
九条は深く頷き、真野の方へと視線を向けた。
「農業と物流で浮いた莫大な余剰労働力は、すべて真野の工場と軍事インフラの拡張に回す。……真野、進捗はどうなっている」
九条の問いかけに、真野が重々しい口を開く。
「エルワの『神の指先』を封印した以上、歩留まりは落ちる。せやけど、俺とチャパ、それに50人に増えた弟子どもが交代制で徹夜して削っとる。労働力が増えた分、不良品の山を築きながらでも、力技で正解を引く泥臭い作業が可能になった。……絶対に間に合わせる」
真野の目の前に広げられているのは、複雑な機構を持った銃器の設計図。
「産まれる前や。アイツらの腹の子供が、この世界に産まれ落ちる前に……絶対に、敵を『面』でなぎ払う悪魔の兵器を完成させる」
「ああ、急げ」
九条は、設計図を指先で強く叩いた。
「防衛網に一切の穴は許さない。二度と、我々の懐に敵を入れさせはしない。そのための『マキシム機関銃』だ」
九条はふと視線を上げ、窓の外――煌々と灯りがともり、夜通し稼働を続ける帝都の煙突を見つめた。
「機械を動かす『軽油』。そして、金属の摩擦を防ぐ『潤滑油』。……これで、真野の機関銃開発も、次なる兵器の量産も、すべてが加速する」
潤沢なエネルギーと、最適化された労働力は、文明を前進させる。
そしてそれは同時に、圧倒的な暴力の基盤となる。
愛する我が子と妻を、完璧なコンクリートの壁の中で守り抜くために。
父となった男たちは、この世界に『悪魔の力』を完全に解き放ったのだった。




