第73話:殲滅戦と、途絶えた物流
本丸ゲート前、絶対防衛線。
真野が組ませた分厚い二重の横隊陣形のすぐ背後で、冴島は静かに革袋の中身を確かめていた。
『妊娠(初期から中期)……。俺たちは、無意識のうちに自分の子供を最前線に立たせ、こんな死の危険に晒していたのか』
普段の飄々とした笑みは、冴島の顔から完全に消え失せていた。
かつて現代で命を救う医療に従事していた男の眼差しは、今や「我が子と妻を脅かす害虫を、化学の力で容赦なく駆除する冷徹な保護者」のそれに変貌している。
「……シラたちには、絶対に指一本触れさせない」
冴島は、自らが化学プラントで精製した「特製の薬液(高濃度の催涙ガス)」が入ったガラス瓶を両手に握りしめ、暗闇の奥から殺到してくるであろう略奪者たちを待ち構え、氷のような視線を向けていた。
***
一方、本丸から遠く離れた市街地の中央広場。
燃え盛る建物の炎が夜空を赤く染め上げる中、鬼頭は冷徹にマスケット銃の撃鉄を起こした。
「左翼、タタンカ! 右翼、タラック! 網を維持しろ!! 敵本隊をこの広場から一歩も逃がすな!」
鬼頭の怒号に合わせ、合流したタタンカの20名、タラックの20名、そして鬼頭本隊20名からなる計60名の戦列歩兵が、巨大な扇状の防衛線を形成している。
「ウオオオォォォッ!! マタ! マタァッ!!」
炎の向こう側から、数百人の蛮族の軍勢――ズガの率いる本隊が、狂気に満ちた雄叫びを上げて押し寄せてくる。だが、鬼頭の目は氷のように冷ややかだった。
「慌てるな。有効射程まで引きつけろ……第一陣、撃てッ!!」
ドンッッ!!!
マスケット銃が一斉に火を噴き、夜の闇を眩い閃光が焦がした。 鉛の弾丸の壁が先頭集団を直撃し、数多の戦士たちが胸から血飛沫を上げて倒れ込む。ペーパーカートリッジによる目まぐるしいリロードと交代射撃(ペロトン射撃)が、弾幕の壁となって敵の怒涛の勢いを正面からすり潰していく。
「足を止めるな! ペロトン射撃を維持したまま、前線を押し上げろ! 奴らに考える隙を与えるな!第二陣、構えッ!……撃てッ!!」
圧倒的な数的不利の中、鬼頭たちは一歩、また一歩と統制された足取りで前進し、敵の圧力を押し返していく。
凄まじい硝煙と血の匂いの中、怒涛のように押し寄せる敵の波を数波に渡って退け、じりじりと前線を広場の外縁まで押し上げた頃――。
背後の暗闇から、統治局(九条)からの伝令が息を切らして駆け込んできた。非番招集のタイムラグを経て、ようやく駆けつけた増援部隊だ。
「鬼頭殿! 九条様からの伝令です! 『順次招集された第一、第二増援小隊(計30名)が到着する。激戦区の左右の翼へ補強として投入せよ』とのことです!」
「了解した! さすがは九条、完璧な管制だ!」
鬼頭は硝煙の匂いを肺に吸い込み、ニヤリと笑った。
遅れて招集された非番の兵士たちによる『十五名単位の増援小隊』が、次々と防衛線に合流してくる。
「第一、第二小隊は左右の翼に展開し、陣形に厚みを持たせろ! 奴らをこの広場に完全に閉じ込めるぞ!!」
予備兵力の到着により、統制された戦列歩兵の陣形がさらに強固なものとなり、暴力の獣たちを確実な死の淵へと追い詰めていった。
***
そして、同時刻の本丸ゲート前。
「ヒャハハハッ! 一番デカい建物だ! あの壁の向こうが宝の山だァァッ!!」
中央広場での死闘を避け、左右の路地を迂回し、最大の富を求めて本丸へと殺到してきた数十名の別働隊。彼らが射程圏内に入った瞬間、真野は冷徹に口を開いた。
「冴島。やれ」
「ああ。……消毒の時間だ」
冴島が、陣形の最前列から「高濃度の催涙ガス」が入ったガラス瓶を、迫り来る敵陣のど真ん中へと連続で力いっぱい投げつけた。
パリンッ! パリンッ!
「ガハッ!? 目が……喉が焼けるゥッ!!」
立ち昇る強烈な黄色い煙を吸い込んだ敵たちが、武器を投げ捨て、喉を掻きむしりながら地面をのたうち回る。 突進の勢いは完全に削がれ、彼らはその場に足を踏みとどまるただの「的」と化した。
「……撃て」
真野の無慈悲な号令と共に、二重に組まれた工員たちのマスケット銃が一斉に火を噴き、さらに冴島たちが導火線に火をつけた「竹筒の手投げ弾」を雨あられと投げ込んだ。
ドパァァン!!
爆風と鉛の弾丸が、ガスで身動きの取れない敵の群れを容赦なく蹂躙していく。 撃ち漏らしなど、物理的に存在しない。完全に統制された「面制圧」の前に、強欲な別働隊はただの一歩も防衛線に近づくことすらできず、無惨な肉塊へと変えられていった。
「よし、本丸の安全は確保した」
硝煙が立ち込める中、敵が完全に沈黙したことを確認した真野は、冷たい目で前方を睨み据え、工員たちに指示を飛ばした。
「第一防衛線をさらに外縁へと押し広げろ! 市民の避難誘導と、残敵の掃討にあたるぞ! 一匹たりともこの街に害虫を残すな!」
物理と化学の完全なるコンビネーション、そして「父親」としての底知れぬ殺意と合理性の前に、一方的な殲滅戦は冷酷に遂行されていった。
***
統治局の最上階。
激しい砲声と銃声、そして断末魔の悲鳴が遠く響く中、アナヒータは静かに執務室の壁際に立ち、震える両手を強く握りしめていた。
「九条、非番組の最後の招集、第三小隊(15名)が揃った。どこへ投入する?」
部屋の中央では、巨大な帝都の地図に次々と木駒を配置していく東が、張り詰めた声で確認をとる。
「鬼頭の中央戦線はすでに安定している。第三小隊は、本丸の予備兵力が向かえなかった『北の路地』へ展開させろ。これで市街地の封鎖網は完全に出来上がる」
九条は、絶え間なく飛び込んでくる伝令からの情報を処理し、東と共に次々と冷徹な指示を飛ばし続けていた。
そこには、焦りも、恐怖も、あるいは怒りすら存在しない。
ただ純粋に、盤上のコマを動かして敵をすり潰すための「最適解」だけを算出し続ける、機械のような知性があった。
『これが、九条様……。これが、帝国を創り上げた男の真の姿……』
アナヒータの背筋を、ゾクッとするような悪寒が駆け抜けた。
それは恐怖ではない。圧倒的な力と知性に対する、原始的なまでの『畏怖』だ。
彼女の知る部族の長たちは、自ら先陣を切って血を流し、大声で戦士を鼓舞する者ばかりだった。
だが九条と東は違う。安全な最上階から一歩も動かず、声一つ荒らげることなく、ただ「情報と命令」だけで数百の戦士の命を完全に支配し、敵を確実な死へと誘導しているのだ。
「……終わったな」
不意に、九条が地図から顔を上げ、冷たい目で窓の外を見た。
中央広場で包囲され、逃げ場を失ったズガの本隊が、帝国軍の分厚い一斉射撃の前に次々と崩れ落ちていくのが、遠目にもはっきりと見えた。
「この国は……この方々がいらっしゃる限り、決して破られはしない」
アナヒータは、まだ見ぬ我が子を宿していることなど露知らず、窓辺に立つ九条の背中を見つめながら、その絶対的な庇護に対する深い安堵と、底知れぬ畏怖の念に打たれて立ち尽くしていた。
***
そして――夜が明けた、北の遠く離れた森の奥深く。
朝日が、巨大な油田プラントの無機質なコンクリートと鉄の躯体を優しく照らし出していた。
鳥のさえずりが響く大自然のど真ん中は、帝都の狂騒など一切届かない、平和で完璧な静寂に包まれている。
「……おかしいな」
郷田は、川の下流をじっと見つめて首を傾げた。
「どうしたの、郷田さん? 朝ご飯できたわよ」
妻のティオが、温かいスープを持って歩み寄ってくる。郷田はそれを受け取りながらも、視線は川の水平線から外さなかった。
「……ティオ。予定の時刻を二時間過ぎている。帝都から来るはずの定期便が来ねえ」
郷田の頭の中にある物流のスケジュールに、一分一秒の遅れも存在しないはずだった。
空樽と資材を積み、代わりに原油を持ち帰るはずの船が、水平線のどこにも見当たらない。
「川の浅瀬で座礁でもしたのかな……?」
「いや、あの船長(チャパの弟子)がそんなヘマをするはずがねえ。それに、万が一遅れるなら、伝馬船で連絡を寄越すのが俺たちの定めた『ルール』だ」
郷田の目が、険しく細められた。
完璧に組み上げられた帝国のサプライチェーン――その大動脈が、何の前触れもなく途絶えた。
その事実が意味するものを、百戦錬磨の土木職人である彼の直感は、すでに導き出していた。
「……帝都で、とんでもねえ異常事態が起きてる」
大自然のど真ん中に取り残された郷田の手の中で、スープの入った木の器が、微かにカタカタと震えていた。




