第68話:強欲な外部勢力との密約
夜の森は、底冷えするような寒さに包まれていた。
帝都を照らす眩い光と、絶え間なく響く機械の駆動音から遠く離れた、手付かずの暗闇の中。
ワバンは、枯れ枝を集めた小さな焚き火の前で、己の肩を抱くようにして震えていた。
寒さのせいだけではない。
これから自分が犯そうとしている「裏切り」の大きさに、本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
ガサッ……。
暗闇の奥から、獣が草を掻き分けるような足音が近づいてきた。
ワバンが弾かれたように立ち上がり、腰の粗末な石器のナイフに手を伸ばす。
「キ、ナパ。ニ、マタ・ノア(怯えるな。殺しはしない)」
野太く、そして底知れぬ残虐性を孕んだ声とともに、闇の中からぬっと巨漢が姿を現した。
周囲の森を縄張りとする、好戦的な独立部族の族長、ズガだ。
彼の背後には、槍や弓で武装した数十人の屈強な戦士たちが、亡霊のように音もなく控えていた。
「ズガ……マカ・ペナ(ズガ……来てくれたか)」
ワバンはナイフから手を離し、強張った声で言った。
二人は互いの母語が異なるため、部族間の交易で使われる『ピジン言語』で言葉を交わす。
「キ、レニ・タイ、マカ・パ? ノア・タイ、ニ、キ、マタ(お前、面白いものを見せると言ったな? もしゴミなら、お前を殺すぞ)」
ズガの殺気に満ちた眼光に射抜かれ、ワバンはゴクリと唾を飲み込んだ。
『……やるしかない。あの街でゴミのように扱われるくらいなら、俺が自らの手で全てを奪い取ってやる』
ワバンは懐から、一枚の布に包まれたものを震える手で取り出した。
そして、それを焚き火の光に翳す。
「ルカ……マカ、タイ!(見ろ……この宝を!)」
ズガの目が、驚きに大きく見開かれた。
それは、一点の曇りもない「透明なガラスのコップ」と、純白の「精製塩」、そして鋭い輝きを放つ「鋼鉄のナイフ」だった。
「……ミ、アイ・ノア?(なんだ……氷か? 違うな……)」
ズガがガラスのコップを奪い取るように手にし、不思議そうに撫で回す。
「アワ・クシ・イン、タイ、タイ、タイ。ミツィ、マタ・ノア。レニ・クシ、ホト(あの壁の中には、こんな宝が山ほどある。食糧は尽きず、家は冬でも暖かい)」
ワバンの言葉に、ズガの周囲にいた戦士たちがざわめいた。
彼らは今、この過酷な冬の森で、その日の獲物を血眼になって探す飢えた生活を送っているのだ。
「……アワ・クシ、タイ・イン(なるほど、あの壁の中に宝が眠っているのか)」
ズガは鋼鉄のナイフの刃を指でなぞり、その鋭さにニヤリと口角を上げた。
強欲な光が、彼の濁った瞳にギラギラと灯る。
「ノア、パコ。クシ、マカ・クシ。キ、ニ、ノア・マタ(だが、どうする? 壁は高く、門は硬い。俺たちの槍は通じないぞ)」
「ニ、イン、モン、パコ(俺たちが、内側から門を開ける)」
ワバンは一歩前に出て、ズガを真っ直ぐに睨み返した。
「レニ・ムン。ニ、パコ・モン。キ、イン、マタ(次の新月の夜だ。俺たちが門の鍵を壊す。お前たちが雪崩れ込めばいい)」
ズガは低く笑い声を漏らした。
「クク……タイ・タイ。キ、ワト・サク?(いいだろう。だが、見返りはなんだ?)」
「マタ、シックス・イクア(あの中にいる6人の男たちを殺せ)」
ワバンの目から、どす黒い憎悪が溢れ出した。
「ニ、レニ・サク。タイ、パンギ、パンギ(俺を新しい族長にしろ。宝は、お前たちと半分ずつ分けてやる)」
「タイ・タイ。レニ・ムン、ニ、マカ(交渉成立だ。新月の夜、合図を待っているぞ)」
ズガはそう言うと、戦士たちを引き連れて再び闇の中へと消えていった。
だが、背を向けたズガの顔には、嘲りの笑みが浮かんでいた。
『愚かな小僧だ。門さえ開けば、誰が約束など守るものか。6人の男も、お前たち裏切り者も、すべて皆殺しにして、あの宝は俺がすべて独占してやる』
帝国の圧倒的な富は、最も純粋で暴力的な「強欲」を、その懐へと引き寄せようとしていた。
***
「東さん、お待たせしました! 注文の品、完成です!」
帝都の中心部。
防音と断熱が完璧に施された東の作業部屋の扉が開き、チャパが数人の屈強な工員たちと共に、巨大な金属の塊を台車に乗せて押し込んできた。
「あー……やっと来たか。ご苦労、チャパ」
東は、何枚もの植物紙が散乱するデスクから顔を上げ、気怠そうに首をポキポキと鳴らした。
彼が要求していたのは、大人がすっぽりと入るほど巨大で、かつ分厚い『極厚鋼鉄タンク』だった。
「真野さんが船のディーゼルエンジンの架装と油圧ジャッキの量産で完全に手が離せなくて……僕が指揮を執ったんですが、大砲と同じ要領で分厚い鋼鉄を継ぎ目なく鋳造して、そのクソ重い蓋を『極太のボルト』で均等に締め上げるの、本当に地獄だったんですよ!」
チャパが油まみれの手で額の汗を拭いながら、タンクの側面に並ぶ無骨なボルトをバンバンと叩く。
「リベット打ちじゃダメだって言われて、わざわざ極太のボルト用のネジ山を切るのにどれだけ苦労したか……。これ、本当にすごい圧力に耐えられるんですか?」
心配そうに尋ねるチャパに、東はふっと口角を上げて笑った。
「耐えてもらわなきゃ困るんだよ。水素と窒素を200気圧の高圧でぶち当てて無理やりくっつけるんだからな。リベットなんかじゃ、水素の分子は一瞬で漏れちまう」
東は立ち上がり、巨大なボルトで固定されたタンクの接続部を指先でなぞった。
その極太のボルトで押しつぶされた隙間には、冴島たちが精製した黒い「Oリング(天然ゴム)」が、パッキンとして完璧に噛み合わされていた。
「……完璧だな。継ぎ目のない鋳造ボディに、極太ボルトの圧力とゴムの反発力だ。これなら気体の分子一つ逃がさない」
『水素脆化に耐える特殊な合金がないなら、極厚の鋼鉄で物理的に抑え込む力技しかない。だが、ゴムのパッキンとボルトさえあれば、密閉度は格段に上がる』
「東さん、チャパ君も工員の方たちも、お疲れ様です。お茶とお夜食を持ってきたわよ」
奥の部屋から、東の妻であるマヤが、オイルランプの光に照らされながら、湯気の立つカップとサンドイッチを乗せたお盆を持って微笑みながら現れた。
「わあ! マヤさん、ありがとうございます! 徹夜明けの体に沁みます!」
チャパと工員たちが嬉しそうにサンドイッチに手を伸ばす。
「東さん、肩、ガチガチですよ。無理しすぎです」
マヤはお盆を置くと、そのまま東の後ろに回り込み、彼の肩を優しく揉みほぐし始めた。
「ああ……そこ。すげえ助かる……」
東は目を閉じ、マヤの温かい手に全てを委ねるように深く息を吐き出した。
『まったく、マヤのこのゴッドハンドがないと、俺の肩はとっくに使い物にならなくなってるぜ』
「あの、東さん。そのバカでかいタンクで、結局何を作るんですか? 爆弾ですか?」
サンドイッチを頬張りながら尋ねるチャパに、東は目を開け、静かに首を振った。
「『パン』だよ」
「はい? パン、ですか?」
「正確には、パンを作るための『肥料』だ」
東は、デスクの上に広げた化学式のメモを指差した。
「空気の8割を占める窒素。こいつを水素と結合させて、『アンモニア』を合成する。……通称、ハーバー・ボッシュ法だ。このタンク一つ稼働すれば、何千人という人間の食糧を、文字通り『空気から』生み出せるようになる」
チャパが、信じられないものを見るように目を丸くした。
「空気から、食べ物が……? まるで、神様の魔法ですね」
「魔法じゃない。ただの化学と、物理法則の積み重ねだ」
東は、マヤの手に頭を預けながら、天井から吊るされたオイルランプの揺らめく光を見つめた。
「……これで、農作業の効率はバケモノみたいに跳ね上がる。もう誰も飢えないし、無駄な労働に時間を奪われることもなくなる。俺は、俺が究極にサボるためのインフラを完成させるだけだ」
「東さんらしいですね。でも……この国がもっと豊かになるなんて、すごいことです」
チャパが尊敬の眼差しを向け、部屋の中には平和で温かな空気が満ちていた。
強固なコンクリートの壁と、圧倒的な技術力に守られた安全圏。
彼らは、自分たちが作り上げた「システム」の完全性を微塵も疑っていなかった。
その完璧な防壁の足元で、無知で強欲な「人間というバグ」が、今まさにシステムを内部から食い破ろうとしていることなど、知る由もなかった。
ピジン語は偽物です。




