第67話:技術格差による「劣等感」と内通者
ドシュゥゥゥ……ガシャン! ガシャン!
帝都の中心部から絶え間なく響いてくる、重厚な金属音と蒸気の唸り。
かつては鳥のさえずりと風の音しか聞こえなかったこの大地は、今や巨大な「工場」そのものへと変貌していた。
その中心部から少し離れた、真新しいコンクリート建築が立ち並ぶ居住区のさらに外周。
間に合わせのテントや粗末な木小屋が密集するエリア――通称「スラム」の薄暗い一角で、旧第一村の戦士であったワバンは、己のひび割れた両手をじっと見つめていた。
『俺たちは……タタンカやタラックと並び称される、誇り高き戦士だったはずだ』
ワバンの足元には、かつて彼が丹念に削り出し、数多の獣を仕留めてきた自慢の槍が、埃を被って転がっている。
だが、今のこの街で、その槍に価値はない。
「ワバン……ネピ、ニ、ミツィ、パンギ……(ワバン……今日も俺のメシは半分にされた)」
テントの入り口をくぐり、一人の若い男が力なく座り込んだ。
彼は最近、遠方から帝都の噂を聞きつけてやってきた「新参の難民」だった。男は、部族間の交易で広く使われる『ピジン言語』を用いて、窮状を訴えた。
「サク・イクア、『ローマジ』、ラップ・ラップ。……ニ、マタ・ノア。キ、レニ・ランガ、マタ・ノア(配給所の女が、『ローマ字』とやらで書かれた板を見ろと言う。……俺には読めない。お前たち第一村の言葉も、難しくて半分しか通じない)」
男は悔しそうに顔を歪めた。
「イクア、『キ、マタ・シチズン。ミツィ、パンギ』。ラップ、マタ・レニ(女は『お前はまだ義務教育を終えた市民じゃないから、配給は半分だ』と言った。俺を虫ケラを見るような目だった)」
ギリッ、とワバンは奥歯を強く噛み締めた。
ワバン自身は第一村の出身であり、帝国の標準語を完璧に話すことができる。
だが、彼は九条が持ち込んだ「ローマ字」という『書き言葉』のシステムにどうしても馴染めなかった。いや、誇り高き戦士として、石板にペンを走らせるような行為を無意識に拒絶してしまったのだ。
結果として、かつての仲間であるタタンカやタラックが帝国の幹部として重用される中、文字を読めないワバンは、肉体労働の末端へと追いやられていた。
個人の武勇など、九条たちが持ち込んだ「圧倒的なシステム」の前では、文字通り無意味だったのだ。
『ふざけるな。帝国人どもは、俺たちを同じ人間だと思っていない。自分たちの手足として動く、便利な道具だとしか思っていないんだ』
ワバンは、暗闇の中でギラリと目を光らせた。
彼は、目の前で絶望している新参者の若者の肩にポンと手を置き、あえて彼と同じ『ピジン言語』へと口調を切り替えて囁いた。
「……マタ・サク。キ、ペニ、ニ、ノア(嘆くことはない。お前たちの苦しみは、俺が一番よく分かっている)」
「ワバン……?」
「マカ・イン、ミツィ、ワンプ、タイ・タイ。アワ、キ、クシ。マタ・レニ、マク(あの鉄の壁の内側には、見たこともないほどの食糧と富が溢れている。あいつらは言葉が分からないお前たちを騙して、不当にこき使っているだけだ)」
ワバンは声を潜め、言葉巧みに若者の怒りを煽り、そして周囲のテントへも響くように囁き続けた。
「ルカ・サク、アザ・レニ、タイ。……ニ、マカ、ペナ。キ、ノア?(遠くの森には、あの富を喉から手が出るほど欲しがっている『他の部族』がいる。……俺たちが中から門を開けて奴らを招き入れれば、どうなると思う?)」
言葉の壁に苦しむ難民たち。そして、新しいシステムに適応できずドロップアウトした保守派の旧住民たち。
ワバンは自らの言語能力(帝国語とピジン言語)を使い分けることで彼らの不満を巧みに束ね上げ、スラムのボスとしての地位を確立しつつあった。
それは、圧倒的な技術と繁栄を誇る帝国の懐で、確実に育ち始めた「破滅の種」だった。
***
時を同じくして、帝都の化学プラント区画。
むせ返るような硫黄の匂いの中、冴島はピンセットで「黒い塊」をつまみ上げていた。
「……ミカ。どうだい?」
冴島の問いかけに、白衣の代わりに機能的な作業着を羽織ったミカが、鼻をヒクつかせて顔を近づけた。
「うん……匂いが変わったよ、冴島。ただの焦げた匂いじゃない。反発力のありそうな独特の匂いだよ」
「よし」
冴島はピンセットからその黒い塊を外し、両手で思い切り引っ張った。
ビィィィン……!
黒い物質は千切れることなく、冴島の力に反発して伸び、そして手を離すと、パチンと音を立てて元の長さに戻った。
「見事な架橋反応だ。セイタカアワダチソウの樹液から抽出したポリイソプレンに、硫黄を加えて加熱する……完璧な『加硫ゴム』の完成だ」
冴島は、フッと口角を上げて笑った。
『まったく、現代の充実したラボが恋しいよ。まさか雑草と硫黄を煮込んで、イチから天然ゴムを精製する羽目になるとはね。だが……これでまた一つ、物理法則の壁をぶち破れる』
「これ、すっごく弾力があるね。何に使うの?」
不思議そうにゴムを突っつくミカに、冴島は黒いリング状に成形されたそれを掲げて見せた。
「ただのゴムじゃない。これは『Oリング(オーリング)』……あの関西の職人と土方親方が、喉から手が出るほど欲しがっていた魔法のパーツさ。さっさと届けてやろう」
***
「っしゃあッ! これや、これを待っとったんや!」
真野の工房に、割れんばかりの歓声が響き渡った。
冴島から黒い「Oリング」を受け取った真野は、子供のように目を輝かせながら、自らが削り出した分厚い鋼鉄のシリンダー(円筒)へと向かった。
「エルワ! ピストンの溝にこれを嵌め込んでくれ!」
「はい、真野さん!」
真野の妻であり、ミクロン単位の凹凸を感知する「神の指先」を持つエルワが、真野からOリングを受け取る。
彼女は流れるような手つきで、金属のピストンの溝に黒いゴムの輪をぴったりとはめ込んだ。
「……真野さん。完璧です。隙間は完全に塞がりました。金属とゴムの間に一切の遊びが見当たりません」
エルワの声に、真野はニヤリと笑い、シリンダーの中にピストンを押し込んだ。
そして、シリンダーに繋がれた細いパイプの先にある、小さなレバーを握る。
「冴島、よぉ見とけよ。パスカルの原理の真骨頂や」
キリキリキリ……!
真野が小さなレバーを上下に動かすたび、密閉されたシリンダーの中に油が送り込まれていく。
ゴムのOリングが油の圧力を完全に封じ込め、逃げ場を失った莫大なエネルギーが、上部にある分厚い鋼鉄のピストンを押し上げ始めた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
そのピストンの上には、大人十人がかりでもビクともしない数百キロの鉄の塊が乗せられていた。
それが今、真野のたった一本の腕の力によって、音もなく持ち上がっていく。
「嘘……あんなに重い鉄が、真野さんの腕の力だけで……?」
エルワが目を丸くして息を呑む。
「これが『油圧ジャッキ』や。液体の圧力は、どんな形にも伝わって、力を何百倍にも増幅させる」
真野は満足げにジャッキのバルブを緩め、鉄の塊をゆっくりと下ろした。
『ゴムのパッキンさえあれば、高圧の油を完全に密閉できる。これで油圧ジャッキが量産可能になるぞ。……郷田の親方が作っとるディーゼル貨物船にこいつを架装すれば、クレーンによる荷役作業の効率がバケモノみたいに跳ね上がる!』
「冴島、お前のゴムのおかげや。これで俺たちの船は、どんなに重い荷物でも一瞬で積んで、川を下れるようになるで!」
真野の熱のこもった声に、冴島は肩をすくめてみせた。
「感謝するよ。これでまた、帝都に莫大な富が運び込まれるわけだ」
圧倒的な技術革新に沸き立つ工房。
六人の天才たちは、自らが組み上げるシステムがもたらす「光」の強さに疑いを持っていなかった。
だが、光が強ければ強いほど、そこに生じる「影」もまた、色濃く、そして深くなっていく。
その影の底で、ワバンたち不満分子の憎悪が限界点に達しようとしていることに、彼らはまだ気づいていなかった。




