第61話:鋼の川船の就航
むせ返るような油の匂いと、鉄を叩く甲高い音が、春の陽気に包まれた帝都の工房に響き渡っていた。
建国3年の春。
大地を揺るがす産声を上げた「内燃機関」――単気筒ディーゼルエンジンは、さらなる魔改造を施されるため、巨大な木造船の船尾に鎮座していた。
「ちゃうちゃう! そこはもうちょい遊びを持たせなアカン!」
油まみれの作業着を着た真野が、潜り込んだ船底から怒声に近い指示を飛ばす。
「動力軸の芯出しが甘いんや! コンマ数ミリでもズレてみい。エンジンのバカげたトルクで、あっという間に軸受けがイカれるで!」
「は、はいっ! すみません、真野さん! もう一度、スペーサーを噛ませて調整します!」
真野の直属の弟子である青年・チャパが、慌ててレンチを握り直す。
彼の額からは大粒の汗が滴り落ちていたが、その瞳は未知の機械構造への好奇心で爛々と輝いていた。
『すごい……。真野さんの言う通りに部品を組み合わせるだけで、この鉄の塊が、あんな凄まじい力を生み出すなんて……』
チャパは内心で戦慄しながらも、手元を狂わせることなくボルトを締め上げていく。
「よし、ええ感じや。次はスクリューのジョイントやな。チャパ、そこ押さえとけ」
「はい!」
真野が指差した先には、分厚い真鍮の板をハンマーで叩き出してねじ曲げた、巨大な「スクリュープロペラ」が接続されていた。
その様子を、少し離れた場所から静かに見守っている女性がいた。
神の指先を持つ細工職人であり、真野の妻となったエルワだ。
「真野さん。私に手伝えることはありますか?」
凛とした声で問いかけるエルワに対し、真野は顔を上げてニヤリと笑った。
「おお、エルワか。お前さんが削り出してくれたピストンリング、完璧に気密を保っとるわ。アレのおかげで、この船はバケモンみたいな推進力を手に入れたで。ホンマにおおきにな」
「……ふふ。あなたが描いた図面が素晴らしいからです。でも、無理はしないでくださいね」
エルワが微笑むと、真野は少し照れくさそうに頭を掻いた。
『この世界に来て、ホンマに最高のおもちゃ(環境)と、最高の嫁はんを手に入れたわ。……やからこそ、俺の作った機械で、絶対にこの国を守り抜いたる』
真野は表情を引き締め、再び船尾のエンジンへと向き直った。
「よっしゃ、最終チェック終わりや! チャパ、エンジンを台座に完全固定しろ! いよいよ、こいつを川に浮かべるで!」
***
数日後。オハイオ川水系へと繋がる、帝都の船着き場。
川岸には、数千人規模にまで膨れ上がった先住民や移民たちが、黒山の人だかりを作っていた。
彼らの視線の先には、川面に浮かぶ一隻の奇妙な船があった。
帆柱はなく、漕ぎ手が座るためのベンチもない。
ただ、船尾に無骨な鋼鉄の塊が鎮座し、黒い煙突が天を向いているだけの、異様なシルエット。
「おい……なんだありゃ? どうやって動かすんだ?」
「風もないのに、帆も張らないのか? まさか、あの重そうな鉄の塊を積んだまま、川を上ろうっていうんじゃないだろうな?」
ざわめく群衆の最前列で、建国メンバーたちがその様子を見下ろしていた。
「ガハハ! いよいよだな、真野の野郎!」
郷田が豪快に笑いながら、丸太のような腕組みをする。
「今まで、重い石材やら何やらを川上で運ぶのに、どれだけの人力と滑車を無駄にしてきたか。アレが成功すりゃあ、俺の土木工事のスピードは桁違いに跳ね上がるぜ!」
その隣で、九条蓮は腕を組み、冷徹な視線を船へと送っていた。
「……手漕ぎや帆船では、川の流れに逆らう『遡上』の輸送コストが致命的なボトルネックだった。だが、これで物理的な制約は消滅する」
九条は淡々と、しかし確信に満ちた声で呟いた。
「風向きも、川の流速も関係ない。圧倒的なエネルギーで自然の法則をねじ伏せる。……これこそが、物流のパラダイムシフトだ。俺たちの帝都に、真の『動脈』が完成する」
『この動脈が稼働すれば、もはやこの一帯で我々の経済力と軍事力に抗える部族は存在しなくなる。システムは、次のフェーズへ移行する』
***
船上では、真野が巨大なフライホイールのクランクハンドルを握っていた。
傍らにはチャパが控え、緊張の面持ちで計器を見つめている。
「真野さん、燃料パイプのバルブ、全開です!」
「よっしゃ! いくでぇ……!」
真野が全身の筋肉をバネのように使い、渾身の力でクランクを回す。
重厚なフライホイールが回転を始め、慣性が限界に達した瞬間、真野がデコンプレバーを強く弾いた。
――ドォォォォンッ!!
大地を揺るがすような爆発音が響き渡り、煙突から真っ黒な煙が勢いよく噴き上がった。
「ヒッ……!?」
「な、なんだあの音は!?」
雷鳴のような轟音に、岸辺で見学していた先住民たちがパニックを起こし、次々と尻餅をつく。
「ビビるな! ここからが本番や!」
真野は叫ぶと、クラッチレバーをガコン、と乱暴に押し込んだ。
エンジンの巨大な回転トルクが、ドライブシャフトを通じて船底のスクリュープロペラへとダイレクトに伝達される。
ズバババババッ!!
船尾の水面が白く激しく泡立ち、スクリューが川の水を強引に掻きむしる。
次の瞬間、数十トンもの物資を積載したはずの重い貨物船が、まるで巨大な見えない手で背中を押されたかのように、ヌルリと前進を始めた。
「う、動いた……!」
「嘘だろ!? あんな重そうな船が、川の流れに逆らって……!」
群衆の驚がくの悲鳴を置き去りにして、ディーゼル貨物船はグングンと加速していく。
手漕ぎカヌーが何十人がかりで必死に漕いでも出せないような速度で。
帆船が風を待たなければ決して進めないような逆風の中で。
鋼の川船は、オハイオ川の流れを真っ二つに引き裂きながら、圧倒的なスピードで上流へと向かって突き進んでいく。
『バカな……人が誰も漕いでいないのに……!』
『風もないのに、あんな鉄の塊が川を登っていくなんて……!』
『神だ……神の使いの魔法だ……!!』
岸辺の先住民たちは、もはや恐怖すら通り越し、呆然とその光景を見送ることしかできなかった。
彼らの数千年にわたる「常識」が、黒煙を上げる鋼鉄の機械によって完全に粉砕された瞬間だった。
「ひゃーっはっはっは! 見たかコラ! これが内燃機関の力や!」
操舵輪を握る真野の甲高い笑い声が、エンジンの轟音に混じって川面を滑っていく。
「真野さん! 凄いです! こんなの……こんなの、夢みたいです!」
チャパが興奮で涙を流しながら、船縁から流れていく景色を食い入るように見つめていた。
『これなら……どんだけ重いモンでも、どこへでも運べる!』
真野は、遠ざかる帝都の岸辺を振り返り、ニヤリと笑みを深めた。
『さあ、次は郷田のオッサンの出番や。この船を空荷で帰らせるわけにはいかんからな。……とびきり重たくて、とびきりヤバいモンを、油田のど真ん中に建ててやるで』
黒煙を吐き出しながら川を遡上する鋼の蛇は、帝国の「次なる狂気」――化学プラント建設という野望を乗せて、力強く水を切り裂いていった。




