第60話:内燃機関の咆哮
建国3年、春。
雪解け水がオハイオ川を満たし、帝都に暖かな日差しが降り注ぐ頃。
真野巧の工房の前に、巨大な「鉄の塊」が鎮座していた。
重厚な鋳鉄製のエンジンブロック。
その横には、人間の背丈ほどもある巨大な鉄の車輪が連結されている。
上部には、鬼頭が精製した琥珀色の「軽油」が入った燃料タンクと、真野たちが手作業で1ミクロンまで磨き上げた「燃料噴射ポンプ」が組み込まれていた。
帝国初となる、単気筒ディーゼルエンジンである。
「……ついに、この時が来たな」
九条蓮が、冷徹な瞳の奥に静かな熱を帯びて、その鋼鉄の獣を見上げた。
彼の背後には、郷田、東、鬼頭、冴島といった建国メンバーに加え、アナヒータ、チャパ、ミカ、エルワたち「帝国の頭脳(R&Dチーム)」が勢揃いし、息を呑んで見守っている。
「おう。燃料のラインは完璧だぜ。空気の混入(エア噛み)も抜いてある」
油まみれの作業着を着た鬼頭が、燃料バルブを開きながらニヤリと笑った。
「シリンダーの潤滑油もたっぷり塗った。ピストンリングのクリアランスも計算通りや。……剛、出番やぞ」
真野が、エンジンの軸に取り付けられた太い「クランク棒」を指差した。
「ガハハ! 任せとけ! こいつの産声を上げさせるのは、パワー自慢の俺の役目だろ!」
郷田が腕まくりをして前に出た。
電気モーター(セルモーター)が存在しないこの世界において、最初のエンジンを始動させるには、人間の筋力で巨大なフライホイールを回し、強引に「最初の圧縮」を引き起こさなければならない。
「ええか、剛! 普通に回そうとしても、空気の反発力(圧縮抵抗)がデカすぎて絶対に回らん! だから、最初はシリンダーの上の【デコンプレバー(減圧弁)】を開けたままにしておく!」
真野がエンジンの頭頂部にある小さなレバーを引いた。
「これでシリンダーの空気が逃げるから、抵抗ゼロで回せる! お前が全力でクランクを回して、巨大なフライホイールに『回転の勢い(慣性)』がついた瞬間に、俺がデコンプを閉める! その勢いで一気に空気を押し潰して、軽油を吹く!」
「オゥケー! つまり、死ぬ気で回せってことだな!」
郷田がクランク棒を両手でガッチリと握りしめた。
傍らでは、チャパとエルワが祈るように手を組んでいる。
「行くぞ……! ウオォォォォォッ!!」
郷田が凄まじい筋力でクランク棒を押し下げる。
『シュッ……シュッ……シュッ……!』
デコンプが開いているため、シリンダー内の空気が抜ける音だけが響き、巨大なフライホイールが徐々に回転を始める。
郷田が顔を真っ赤にして全身のバネを使い、回転速度をどんどん上げていく。
『シュンッ! シュンッ! シュンッ! シュンッ!!』
何百キロもあるフライホイールが、恐ろしい勢いで回り始めた。
「今や!!」
真野の怒号と共に、彼の右手がデコンプレバーを『ガコンッ!』と力強く弾き戻した(閉じた)。
その瞬間、シリンダーの逃げ道が完全に塞がれる。
フライホイールの莫大なエネルギーが、シリンダー内の空気を容赦なく体積20分の1まで押し潰し、一瞬にして600度を超える超高温空間を生み出した。
同時に、カムシャフトに弾かれた燃料噴射ポンプのプランジャーが、1ミクロンの隙間もない極限の気密性をもって、超高圧の軽油を霧状にしてシリンダー内へ叩き込む。
超高温の空気と、霧状の軽油が交わった。
『ドガァァァァァァンッッ!!!!』
大気を引き裂くような、凄まじい爆発音が工房の前に響き渡った。
「うおっ!?」
「キャアアッ!?」
チャパやエルワたち先住民が、雷でも落ちたかのような轟音に悲鳴を上げ、思わず耳を塞いでしゃがみ込む。
爆発の衝撃で、クランク棒を握っていた郷田の手から安全装置(ラチェット機構)が外れ、棒が弾き飛ばされた。
『ドッ……! ドッ……! ドッ……! ドッ……!』
煙突から、真っ黒な煙が勢いよく空へ吐き出される。
郷田が手を離したにもかかわらず、巨大なフライホイールは止まるどころか、自ら速度を上げ、大地を揺るがすような重低音を響かせながら連続回転を始めた。
「……動いた……!」
真野が、煤で真っ黒になった顔を歪ませ、震える声で呟いた。
「動いたぞおぉぉぉっ!!」
『ドドドドドドドドッ!!』
エンジンは、真野の叫びをかき消すほどの咆哮を上げ続けた。
燃料タンクから軽油を吸い込み、1ミクロンのポンプで噴射し、圧縮着火で爆発する。
その完璧なサイクルが、機械自身の手によって自律的に繰り返されている。
「す、凄い……! 風も水もないのに、鉄の塊が勝手に動いてる……!」
チャパが、エンジンの周囲に立つ陽炎(熱気)を見つめながら、畏敬の念に震えていた。
エルワも、自分たちの指先で磨き上げたポンプが一滴の油も漏らさずに超高圧に耐えているのを見て、感動の涙を流している。
「ハハハハッ! 見ろよこの回転トルク! 水車なんざ目じゃねえ、圧倒的なパワーだ!」
郷田が、大地を揺らす振動を足の裏で感じながら狂ったように笑う。
「最高だ……! こいつを台車に積めば、完全自動の物流網ができる。俺のサボりライフは目前だぜ……!」
東が、エンジンの熱気を顔に受けながら、恍惚とした表情で呟いた。
圧倒的な爆発音。
燃焼する油の匂い。
大地を揺るがす暴力的なまでの振動。
それは、人類が自然の軛から解き放たれた証拠であり、文明が新たなステージへと足を踏み入れた歓喜の産声だった。
九条は、唸りを上げる内燃機関の前に進み出た。
そして、その熱く焼けた分厚い鉄の装甲を、火傷も厭わずに手で撫でた。
「……聞いたか、お前たち」
九条の低く冷徹な声が、エンジンの轟音の中でもはっきりと建国メンバーたちの耳に届いた。
「風の気まぐれも、川の渇水も、もはや我々を縛ることはできない。大地の血(石油)と、鉄の細胞(機械)が、これより我々の手足となる」
九条は振り返り、燃え盛るような野心を宿した瞳で、仲間たちを見回した。
「人間の筋肉に頼る泥臭い時代は、たった今、完全に終了した。これより、我がアメリカ帝国は『重工業化』のフェーズへと移行する」
帝都の空へ、黒々とした排気ガスが高々と立ち上っていく。
それは、未知の異世界に対する、強大な機械文明の明確な宣戦布告であった。




