第5話:神業の石器と獲物の確保
『ガサガサッ!!』
数十メートル先の茂みが大きく揺れ、森の空気を震わせる不気味な咆哮が響いた。
「……来るぞ」
九条が低く呟く。
岩壁の窪みに身を潜めた六人の視線の先、鬱蒼とした木々の間から飛び出してきたのは、巨大な獣だった。
『グルルルァァァッ!!』
それは、現代のイノシシを一回り以上大きくし、肩の筋肉を異様に隆起させたような凶暴な姿をしていた。
体長は優に一メートルを超え、その目は明らかな殺意と飢えにギラギラと血走っている。
「ヒッ……!」
東が思わず息を呑み、岩肌に爪を立てた。
全裸で丸腰の現代人など、あんな牙を伴った突進をまともに受ければひとたまりもない。
獣は周囲の匂いを嗅ぎ回り、岩肌に張り付く六人の存在に気づいた。
『ガァッ!!』
標的を定めた獣が、獲物を引き裂くために猛然と突進を開始した。
その凄まじい脚力で、腐葉土を蹴り上げながら一直線に斜面を駆け上がってくる。
「動くな! 絶対に身を乗り出すな!」
鬼頭が低く鋭い声で仲間を制止する。
その目は、猛烈なスピードで迫る獣の軌道を、冷徹な軍事レーダーのように測っていた。
『速度、よし。進入角、よし。……完全に誘導線に乗った!』
獣が、郷田の指示した「最も走りやすい」窪んだ獣道をトップスピードで駆け抜ける。
その直後だった。
『バチンッ!!』
郷田が足元スレスレの高さにピンと張り詰めていた、太いツル草のワイヤートラップ。
獣の太い前脚が、それに勢いよく激突した。
「ギィャアアッ!?」
トップスピードからの急激な足止め。
慣性の法則をモロに受けた獣の巨体は、空中で無様に前転するように体勢を崩し、ドスッ! と鈍い音を立てて倒木に激突した。
「今だッ!!」
鬼頭が岩陰から弾かれたように飛び出した。
その手には、傍らで見繕っていたバスケットボール大の重い岩が握られている。
脳震盪を起こして痙攣している獣の頭部へ向けて、鬼頭は容赦なく岩を振り下ろした。
『メキィッ!』
頭蓋骨が陥没する生々しい音が響き、獣はビクンと一度大きく跳ねた後、完全に動かなくなった。
「……ふう。ミッション・コンプリートだ」
血飛沫を浴びた鬼頭が、全裸のまま荒い息を吐いて立ち上がる。
「す、すげえ……! マジで仕留めやがった!」
郷田が目を丸くし、東は腰を抜かしたままへたり込んでいる。
「郷田の地形の読みが完璧だったおかげだ。俺一人じゃ、あのスピードに対処するトラップは仕掛けられなかった」
鬼頭がニヤリと笑い、郷田と視線を交わした。
***
「見事な連携だ。これで当面の『食糧』も確保できたな」
岩陰から歩み出た九条が、倒れた獣の死体を冷ややかに見下ろした。
「だが問題はここからだ。火を起こして肉を焼くにも、このままじゃどうしようもない」
「確かに……」
冴島が顎に手を当て、獣の分厚い毛皮を観察する。
「この毛皮と筋肉を素手で引き裂くのは不可能だ。現代の鋭利な刃物……ナイフかメスでもなければ、解体して食肉にすることはできない」
「俺の出番だな」
冴島の言葉を遮るように、真野巧が一歩前に出た。
町工場の三代目であり、機械・材料工学のスペシャリストだ。
「おい真野、素手で引きちぎる気か?」
東が呆れたように言う。
「バカ言え。道具がなきゃ、作ればいいだけだ」
真野はそう言うと、先ほど沢で拾ってきていた、手のひらサイズの黒っぽい石をいくつか地面に並べた。
「少しガラス質を含んだ硬い石……おそらくチャート(燧石)の一種だ。こいつを加工する」
「加工って……石を割ってナイフにするのか? 歴史の教科書で見た『打製石器』ってやつか」
郷田が興味深そうに身を乗り出す。
真野の目が、普段の鬱屈としたそれから、職人としての真剣な光を帯びたものへと変わった。
『……金属加工の切削とは違う。だが、素材の性質を利用して「破壊」をコントロールするという意味では、理屈は同じだ。石の結晶構造と、貝殻状断口(割れ目)の入り方さえ読めれば、刃は作れる』
真野は、ベースとなる石(母岩)を左手に持ち、もう一つの硬い丸石(叩き石)を右手に握った。
『石の打撃面に対する力のベクトル。衝撃波の伝播ルート。……やってみるか』
「よく見とけよ」
真野が、右手の石を慎重に振り下ろした。
『カァンッ!』
甲高く、澄んだ音が森に響く。
石の表面から、薄い破片が剥がれ落ちた。
「……よし、悪くない」
『カンッ! カチッ! ガキッ!』
真野の手元で、試行錯誤を含んだ打撃が繰り返される。 叩く角度を微調整し、時には失敗して石を一つ無駄にしながらも、真野は驚異的な速度で「石の割れる法則」を指先で理解していった。
数分の間、根気のいる手作業が続いた。
やがて真野が息を吹きかけると、削りカスが飛び散り、一つの完成品が姿を現した。
「できたぞ」
真野の手には、手のひらに収まるサイズの、鋭い断面を持った「石器のナイフ」が握られていた。
「鋼のサバイバルナイフみたいな万能さはないし、すぐに刃こぼれもするだろう。だが、肉を裂くための使い捨ての刃としては十分だ」
真野はそう言うと、倒れている獣の毛皮に、その石器の刃を押し当てた。
『ゴリッ……ギリギリッ……』
確かな抵抗と硬い手応えがあったが、真野が刃の角度を工夫し、体重を乗せて引き切ると、分厚い毛皮が確かに切り裂かれていった。
「冴島、素人が適当に切っても刃が欠ける。関節や腱の位置を教えろ」
「ああ、任せろ。そこから三センチ右の軟骨を狙え」
真野の道具作りのセンスと、冴島の解剖学の知識が組み合わさる。
二人は泥臭くも確実に獣の解体を進め、鮮血を滴らせながら、食べられる部位を切り分けていった。
「すげえ……!! マジで石ころを刃物にしやがった!」
東が身を乗り出して叫ぶ。
「道具ってのは、結局のところ手の延長だ。ハイス鋼だろうが石ころだろうが、物理法則に従って形を整えてやれば、ある程度の仕事はできる」
手首の疲労に息を吐きながらも、真野は職人としてのプライドを満たされたように笑った。
***
「水、安全の確保、そして食糧と道具」
解体されていく獣肉を見下ろしながら、九条が満足げに頷いた。
「上出来だ。お前たちのシステムは、この原始の世界でも十分に機能している」
九条の言葉に、全裸で血と泥にまみれた五人の天才たちの顔には、もはや最初の絶望やパニックは微塵も残っていなかった。
彼らの瞳には、己の知識と技術でこの過酷な世界に立ち向かえるという、確かな自信が宿っていた。
「だが、まだ最も重要なピースが欠けている」
九条は、一段と冷たさを増した風を浴びながら、西の空へ傾きかけた太陽を見つめた。
「空気が急速に冷え始めている。いくら肉があっても、凍死しては意味がないし、生肉のままでは寄生虫のリスクもある」
九条の視線が、東と真野に向けられた。
「次は『火』だ。完全な夜が来る前に、原始の炎を手に入れるぞ」




