第40話:巨大熊との総力戦
――ドスゥゥゥンッ!!
真野巧の放った二発目の鋼の矢は、吹雪の夜空を一直線に切り裂いた。
距離はわずか数メートル。減衰ゼロの完全な運動エネルギー。真野の狙いは、分厚い頭蓋骨を避けた目と鼻の間のわずかな隙間だった。
だが、極限の生存本能か、発射音に反応して巨大熊が身をよじった。
「……チッ!」
ボルトは顔面をわずかに逸れ、あろうことか一発目と同じ「右肩」へと寸分の狂いなく吸い込まれた。
だが、それが致命的な物理破壊をもたらした。
一発目の矢によってすでに筋肉の繊維が裂け、強度が落ちていた部位に、至近距離からの鋼の質量が再び激突する。ボルトは分厚い脂肪と筋肉を完全に貫通し、その奥にある巨大な「肩甲骨」を根本から粉砕したのだ。
「ガァウッ!?」
バキィッという鈍い骨折音と共に、巨大熊の右腕が力なくダラリと垂れ下がった。 自重を支えるための強靭な「柱」が、物理的にへし折られた瞬間だった。
「ガァァァァァァッッ!!」
怒り狂った巨大熊は、残った三本の足で強引に堀の斜面を這い上がり、防衛線の要である『レンガ壁』へと飛びかかろうとした。 だが、片腕が完全に機能しない状態では、自重を引き上げる推力は物理的に生み出せない。
ズリザザザッ……!
壁の土台に爪を立てたものの、バランスを崩した巨体は重力に逆らえず、再び堀の底へと無様に滑り落ちていった。
「よし、登れねぇぞ! 機動力を奪った!」
郷田剛が安堵の叫びを上げるが、熊は堀の底で狂ったように暴れ回り、今度は残った腕と牙で土壁そのものを破壊し始めていた。
「クソッ、三本足でもあのパワーかよ! 真野、次弾だ!」
鬼頭陣が叫ぶ。
「アカン! 巻き上げに数秒かかる!」
真野が血相を変え、三発目の装填のために必死でウィンチを回す。
「……慌てるな。血液の循環スピードを計算しろ」
背後に立つ冴島陸だけが、氷のように冷たい声で呟いた。
彼は自身の脈拍を基準に、冷静に秒数をカウントしている。
「心拍出量がどれだけデカくても、血液が脳と心臓を巡るまでには物理的なタイムラグがある。……8、9、10……」
土壁を削り取っていた巨大熊の動きが、突如としてピタリと止まった。
「……ガ、ァ……?」
爛々と輝いていた狂気の眼が、焦点の合わない虚ろな状態へと泳ぎ始める。
口からは大量の白い泡が吹き出し、巨体が糸を切られた操り人形のように崩れ落ち、堀の底で激しい痙攣を起こし始めた。
「よし、回ったな」
冴島が白衣のポケットに手を突っ込んだまま、無表情に頷く。
「トリカブトのアコニチンが心筋のナトリウムチャネルを狂わせ、致死的な不整脈を引き起こした。さらに毒キノコの成分が中枢神経を焼き切る。いかに強靭な肉体だろうと、哺乳類である以上、神経伝達物質の化学的なバグからは逃げられない」
「……今だ。トドメを刺せ、真野」
鬼頭が顎で促す先では、真野がちょうど三発目の装填(巻き上げ)を終え、荒い息を吐きながらクロスボウを構え直していた。
「……動かん的なら、外しようがないわな」
真野は堀の縁から身を乗り出し、痙攣する巨大熊の頭部――最も骨が薄く、脳幹に直結する『眼窩』へとクロスボウの狙いを定めた。
距離はわずか数メートル。横風の影響も、距離による減衰もゼロ。
「……あばよ、化け物」
――ドスゥゥゥンッ!!
空気を切り裂く破擦音と共に放たれた三発目の鋼のボルトは、巨大熊の眼球を正確に射抜き、そのまま薄い眼窩の骨を物理的に粉砕して脳髄へと深く突き刺さった。
ビクンッ、と巨体が一度だけ大きく跳ね、その後、完全に沈黙した。
即死だった。
「……Maxku(マァク=熊)、Mata(マタ=死んだ)……?」
タラックが、引きつった顔で東航平の袖を引く。
「ああ。俺たちも、お前らも……Urito(ウリト=良い、大丈夫)だ」
東は気怠そうに単語帳の言葉を返しつつも、その手は微かに震えていた。
勝利の歓喜はない。ただ、自分たちがギリギリの綱渡りで生存できたという冷や汗の感覚だけが、全員の背中を伝っていた。
「喜んでる場合じゃねぇぞ」
冷徹な声が響き、九条蓮がゆっくりと防衛線の最前線へと歩み出てきた。
彼は、崩落した堀の斜面と、血まみれになった堀の底を能面のような表情で見下ろしている。
「今回のテストケースで、俺たちの構築したシステムの『脆弱性』が完全に露呈した」
九条の言葉に、郷田と真野が悔しそうに顔を歪める。
「俺の防衛線(物理)は、質量と運動エネルギーの限界値を見誤っていた。木と土の基礎じゃ、数トンの衝撃は吸収しきれねぇ」
郷田がギリッと拳を握りしめる。
「俺のクロスボウもや。150メートルの距離減衰と、分厚い脂肪と筋肉(生体装甲)の前には、一撃で致命傷(バイタル破壊)を与えられへんかった」 真野も自身の武器の限界を突きつけられ、職人としてのプライドを砕かれていた。
「そうだ」
九条は振り返り、建国メンバーたち全員を見回した。
「木や土の防壁では、いずれ突破される。鋼の矢(点)の攻撃では、圧倒的な質量と数を止められない。 もしあれが二頭同時に来ていれば、インフラは破壊され、俺たちは全滅していた」
九条は、夜明けが近づき白み始めた冬の空を見上げた。
「これまでの防衛思想は捨てろ。俺たちはこれから、敵の運動エネルギーそのものを削ぎ落とす、物理的に突破不可能な『多層防御の鉄条網要塞』を構築する。そして……」
九条の冷たい視線が、真野と鬼頭へと向けられた。
「矢ではなく、面で敵を粉砕する圧倒的な火力。……『大砲』を造るぞ。春までに、この国を鉄と火薬のハリネズミにする」
真野と鬼頭の顔に、再び狂気と野心が入り混じった笑みが浮かんだ。
冬の死闘は、彼らの「産業革命」のフェーズを、生存のためのインフラ構築から、世界を蹂躙するための『軍事要塞化』へと強制的に引き上げる起爆剤となったのだ。




