第39話:絶対防衛線の崩壊と規格外の暴力
「……チッ、デカすぎやろ……! トラックかよ……!」
真野巧は、壁の上から巨大な熊を見下ろし、ギリッと奥歯を噛み締めた。
肩までの高さは二メートルを優に超え、立ち上がれば四メートル近くになるだろう。白濁した片目と、顔面から肩にかけて刻まれた無数の古い傷跡が、この過酷な自然界を生き抜いてきた「歴戦の巨大ヒグマ」であることを物語っていた。
「グルルルルルッ……」
手負いの巨大熊は、地鳴りのような唸り声を上げながら、防衛線から百五十メートルほど離れた雪原に転がっていた巨大狼の死骸へと近づいた。
そして、マヒンガンの首筋に無造作に噛み付くと、そのままボリボリと骨ごと咀嚼し始めた。
「ひっ……!」
壁の上で槍を構えていたタラックたち先住民の若者が、恐怖で完全に戦意を喪失し、後ずさりする。
マヒンガンですら彼らにとっては冬の悪夢だ。それを、まるでウサギでも食べるかのように貪り食うあの巨大生物は、もはや災厄そのものだった。
「おい、真野! ボーッと見てんじゃねぇ! 撃て!」
鬼頭陣の鋭い怒号が飛ぶ。
先ほどの狼の群れで『指向性地雷(黒色火薬)』はすべて使い切ってしまっていた。現在の有効な遠距離火力は、真野のクロスボウのみだ。
「わかっとるわ! 距離、およそ百五十メートル……クロスボウの命中精度と威力が担保できる、ギリギリの限界距離やな。オラァッ!!」
真野は悪魔の兵器、特製クロスボウの引き金を引いた。
――ドスゥゥゥンッ!!
空気を切り裂き、初速百メートルを超える鋼のボルトが発射される。 だが、距離による『空気抵抗(減衰)』は容赦なくボルトの運動エネルギーを奪っていく。
さらに、巨大熊の急所である首や頭部から逸れて、分厚い肩の筋肉のど真ん中へと深々と突き刺さった。
「ギャウッ!?」
「よっしゃ、入った……!」
真野が会心の笑みを浮かべた、その次の瞬間。
「……ガァァァァァァァァァァッッ!!!」
大気を震わせる凄まじい咆哮と共に、熊は肩に刺さった矢を鬱陶しそうに前足で乱暴に払い除けた。
「はぁ!? 嘘やろ!?」
真野は目を見開き、クロスボウを持ったまま硬直した。
『至近距離なら、たとえ急所を外しても骨を粉砕して身動きを取れんようにできる破壊力があるはずや! やけど、百五十メートルという距離による減衰のせいで、致命的に貫通力が足りへんかった……! 分厚い筋肉と脂肪に阻まれて、肩甲骨まで届いてへんのか!』
「おい真野、距離が遠すぎたな! 威力が落ちて致命傷になってねぇ! 怒らせただけだ!」
鬼頭が舌打ちをする。
肩に痛みを受けた巨大熊は、完全に狂乱状態へと突入し、自分に攻撃を仕掛けてきた「壁の上の存在」を睨みつける。
ズシンッ! ズシンッ! ズシンッ!
地響きを立てながら、熊は百五十メートルの距離を猛烈なスピードで詰め、居住区をぐるりと囲む『本命の防衛線』へと猛突進を開始した。
「来やがるぞ! 郷田、お前の壁は耐えられるか!?」
鬼頭の問いに、郷田剛は壁の上から身を乗り出し、血走った目で叫び返した。
「当たり前だ! 俺の組んだ『逆茂木』と堀だぞ! 重機でも来ねぇ限り……!」
郷田が叫び終わるよりも早く、巨大熊は幅三メートルの堀に向かって、一切の躊躇なく跳躍した。
そして、その数トンに及ぶ巨体が、堀の内側に向けて打ち込まれていた無数の直径二十センチの丸太(逆茂木)へと激突する。
――ドズゥゥゥゥンッッ!!! バキバキッ……崩ザザザァッ!!
「なっ……!?」
郷田の口から、絶望の混じった声が漏れた。
丸太がへし折られたわけではない。木の剪断強度は、巨大熊の衝撃に耐えきった。
だが、丸太を打ち込み固定していた『堀の土壁(基礎)』が、数トンに及ぶ圧倒的な質量と時速数十キロの運動エネルギーを受け止めきれず、大きくえぐり取られて崩落したのだ。
丸太の先端が熊の分厚い脂肪に突き刺さったものの致命傷には至らず、逆に狂乱した熊の巨体と腕力によって、土塁ごと丸太がバリバリと引っこ抜かれていく。
「ウソだろ……。丸太じゃなく、土台の支持力が負けた……! コンクリで固めてねぇただの凍土じゃ、数トンの運動エネルギー(質量)を相殺できねぇのか!」
郷田は土木屋として、自身の設計した基礎強度の甘さを突きつけられ、顔面を蒼白にした。
「ガァァァァッ!!」
土壁を崩壊させ、障害物を物理的に排除した熊は、重機のようなパワーで強引に崩れた斜面を這い上がってくる。
完成間近だったレンガ壁の外周。
彼らの生存を担保していた「絶対のインフラ」が、ただの「質量という暴力」の前に、いとも容易く破られようとしていた。
「おいおいおい……マジかよ。こっちにはもう、銃も地雷もねぇんだぞ!」
鬼頭が珍しく焦りの色を浮かべ、腰に下げていた石器のナイフを抜くが、あんな巨体に白兵戦を挑めば一瞬で肉塊に変えられるのは明白だった。
「アズマ……! Seki(セキ=怖い)……! Maxku(マァク=熊)、Seki……!」
タラックたち若者が、ガタガタと震えながら東航平の背中にしがみつく。
「おいおい、Poni(ポニ=やめろ)だ。俺にすがるなよ。俺は情報系だぞ、物理的なバグへのパッチは専門外だ」
東は気怠そうに単語帳の言葉を使いながらも、その顔には冷や汗が流れていた。
絶望的な空気が壁の上を支配した、その時。
「……物理的なダメージで急所を破壊できないなら、化学的なアプローチで内側から止めるしかないな」
ずっと沈黙を保っていた冴島陸が、白衣(植物繊維で編んだコート)のポケットから、何本かの「黒い液体の塗られた鋼の矢」を静かに取り出した。
「冴島……? お前、それ……」
九条蓮が鋭い視線を送る。
「真野、これを撃て」
冴島は、取り出した矢を真野へと差し出した。
その矢尻には、ドロリとした不気味な光沢を放つペースト状の物質が、たっぷりと塗りつけられていた。
「なんやこれ、ベタベタして……」
「秋の間に、森で採取しておいた『トリカブトの根』と『毒キノコ(テングタケの一種)』から抽出した、特製の神経麻痺毒だ」
冴島は、無表情のまま恐ろしいことを口にした。
「分厚い脂肪と筋肉で脳や心臓に物理的破壊が届かないなら、届かせる必要はない。毛細血管を一本でも傷つけて、この毒を血流に乗せればいい」
「……お前、医者の分際でエグいモン作っとるな」
真野は引きつった笑いを浮かべながらも、震える手で毒矢を受け取り、クロスボウに装填した。
「急げ。崩れた堀を這い上がってくるぞ」
冴島の言葉通り、巨大熊はすでに堀の斜面を半分以上登りきり、怒りに満ちた目で壁の上の彼らを睨みつけていた。
「……任せとけ。距離は完全に詰まった。減衰ゼロの最大火力や」
真野は深く息を吐き、水力旋盤で削り出した狂いのないシアー(引き金)に指をかけた。
極限の緊張の中、職人の瞳が、怪物の最も肉の薄い部分――目と鼻の間のわずかな隙間へと焦点を合わせる。
「喰らえや、化け物!!」
――ドスゥゥゥンッ!!
夜の吹雪を切り裂いて、二発目の鋼の矢が放たれた。




