第28話:サリチル酸と蜂蜜の奇跡
オンドル小屋の中は、依然としてむせ返るような熱気と、血と泥、そして何かが焦げたような匂いが充満していた。
ニカンの右足の切開創は見事に縫い合わされていたが、手術はあくまで「物理的な処置」に過ぎない。
「よし、アナヒータ! 煮出したヤナギの樹皮の汁を、こいつの口に含ませろ。少しずつでいい、絶対にむせさせるな」
血塗れの腕を洗い流した冴島が、鋭く指示を飛ばす。
アナヒータは震える手で木の器を持ち、意識の混濁しているニカンの口元へ、苦みのある茶色い汁を流し込んだ。
『……ヤナギの樹皮にはサリチル酸(アスピリンの主成分)が含まれている。天然の解熱鎮痛剤だ。まずはこれで、手術のショックと術後疼痛による過呼吸を抑え込む』
冴島の目は、冷徹な臨床医のままだった。
彼は傍らに置かれた素焼きの壺を引き寄せた。村の備蓄からアナヒータが掻き集めてきた「蜂蜜」だ。
「真野、木のヘラを煮沸して渡せ。……ここからが本当の勝負だ」
冴島は受け取ったヘラで、黄金色に輝く粘り気のある蜂蜜をたっぷりと掬い上げると、ニカンの縫合したばかりの痛々しい傷口全体に、分厚く塗りたくっていった。
その光景を見ていたアナヒータは、目を丸くした。
「サエジマ様……。なぜ、傷口に甘い蜜を塗るのですか? 虫が寄ってきてしまいます……」
「虫が入る前に、清潔な麻布で厳重に密閉するから問題ない」
冴島は手を止めず、淡々と、しかし確信に満ちた声で答える。
「いいか。ペニシリン……いや、お前たちの言葉で言えば『病魔を喰い殺す薬』がないこの状況で、化膿(感染症)を防ぐ唯一の手段がこれだ。……蜂蜜の極めて高い糖分(浸透圧)が、傷口に繁殖しようとするバクテリアの水分を奪い取り、細胞壁を破壊する。さらに、蜂蜜に含まれる酵素が微量の過酸化水素を生み出し、持続的な殺菌効果を発揮するんだ」
『……現代医療においても、重度の褥瘡(床ずれ)や耐性菌の感染創に対して「医療用ハチミツ(マヌカハニーなど)」を用いるアプローチは有効な手段として確立されている。天然の最強のバリアだ』
冴島は分厚く蜂蜜を塗った傷口を、煮沸消毒した麻布で幾重にも巻き上げ、キツく縛り上げた。
「……こいつの処置は完了だ。骨は太い副木でガチガチに固定した。骨が癒合するまで、一ヶ月は絶対に歩かせるな。少しでも動かせば血管が破れるぞ」
冴島はニカンから手を離すと、深く息を吐き、すぐさま視線をオンドル小屋の外へ向けた。
「九条! 外で待機させている他の連中を一人ずつ中へ入れろ! まだ終わっちゃいない!」
嵐による倒木や家屋の倒壊で、重傷を負った者はニカンだけではない。
骨折、深い裂傷、打撲。トリアージによって命の順番をつけられた患者たちが、次々とこの「即席の無菌室」へと運び込まれてきた。
冴島はその全員に対し、泥を洗い流し、傷を縫い、蜂蜜を塗り込み、ヤナギの汁を投与するという徹底した処置を、休むことなく繰り返していった。
***
それからの三日間は、まさに死闘だった。
「熱が上がってきたぞ! ヤナギの汁を追加しろ!」
「脈が速い。脱水症状を起こすぞ、塩と砂糖を混ぜた湯(経口補水液)を飲ませろ!」
冴島はほとんど一睡もせず、ニカンをはじめとする重傷者たちの傍らに張り付いた。
他のメンバーも、冴島の指示の下で完璧なサポート体制を敷いた。
郷田と東が交代でオンドルの火力を調整して室温を一定に保ち、鬼頭が定期的に小屋の周囲を警戒し、真野が煮沸用の鍋とピンセットの管理を徹底する。
アナヒータはその様子を、部屋の隅から畏敬の念を持って見つめ続けていた。
『……すごい。誰も、精霊に祈っていない。誰も、運命を諦めていない』
ニカンは高熱にうなされ、何度も死の淵を彷徨った。
しかし、その度に冴島たちが物理的な手段(冷却、水分補給、薬効成分の投与)を用いて、力ずくで彼を現世へと引き戻すのだ。
そして、四日目の朝。
「……ん、ぁ……」
オンドル小屋の静寂を破るように、ニカンの口からかすかな呻き声が響いた。
冴島が即座に額に手を当て、脈をとる。
『……脈拍安定。体温、三十七度台まで低下。呼吸も正常だ』
冴島は包帯を少しだけ解き、傷口を確認した。
蜂蜜のバリアとサリチル酸の効果により、傷口の壊死組織は見事に溶け落ち、綺麗な肉芽(新しい組織)が上がり始めていた。嫌な腐敗臭もない。
「……ハッ。俺の勝ちだ、クソ忌々しいバクテリア共」
冴島の口から、深くて長い、安堵の息が漏れた。
彼は振り返り、床で仮眠を取っていた九条たちに向かって、静かに親指を立てた。
「峠は越えた。足も腐ってない。他の連中も感染症の兆候はゼロだ。……全員、生き残るぞ」
その言葉を聞いた瞬間、アナヒータは両手で顔を覆い、堰を切ったように泣き崩れた。
絶対に死ぬはずだった命が、神業のようなメスと、知識という名の魔法によって、完全に繋ぎ止められたのだ。
***
数日後。
オンドル小屋の前の広場には、異様な静寂が落ちていた。
長老ワパナキをはじめとする村人たちが、おそるおそる拠点を訪れていた。
彼らの視線の先には、日当たりの良い場所に並べられた寝台(木の板と毛皮)の上で、日光浴をしている重傷者たちの姿があった。
ニカンは右足を太い添え木とツルでガチガチに固定され、寝たきりの「絶対安静」状態ではあったが、その顔色は良く、見舞いに来た母親の呼びかけにはっきりと笑顔で答えていた。 他の患者たちも同様だ。腕を深く裂かれた者、肋骨を折った者、その誰もが穏やかな呼吸を繰り返している。
「ニカン……!! おお、大いなる精霊よ……!」
母親が泣き叫びながら息子の無事を喜ぶ中、周囲の村人たちは、信じられないものを見るようにざわめいていた。
長老ワパナキは、震える手で杖を握りしめ、寝台に横たわるニカンの姿を凝視していた。
『あんな巨大な倒木に潰され、骨が飛び出し、肉が千切れていたのだ。……精霊の掟に従えば、足が腐り落ち、熱にうなされて確実に死ぬはずの運命だったのだ』
それがどうだ。
目の前にいる者たちは、寝たきりではあるものの、命の危機など微塵も感じさせないほどに生気を取り戻している。
ワパナキは、広場の中央に立つ九条たちを見上げた。
『……彼らは、ただの魔法使いではない。大いなる自然の理(死の運命)すらも、自らの手で書き換えることができる存在……。まさに、命を操る神の使いだ……!!』
ワパナキはよろよろと前に進み出ると、九条の足元に深く、深く膝をついた。
それに続くように、他の長老たち、タラックたち戦士、そして全ての村人が、一斉に地面に平伏したのだ。
「……偉大なる方々よ。我々の無知をお許しください。あなた方こそが、この地に降り立った真の理(神)です」
ワパナキの震える声が、広場に響き渡る。
その圧倒的な服従の光景を見下ろしながら、九条蓮の瞳の奥には、冷酷で底知れぬ野心の炎が静かに燃え上がっていた。
『……これで、村人の心は完全に掌握した。俺たちの施すインフラと医療の恩恵なしでは、二度と生きられない体になったはずだ』
九条は傍らに控えるメンバーたちを一瞥した。
「準備はいいな。……仕上げに入るぞ」
圧倒的な実利(奇跡)によって民衆を完全にひざまずかせた今、単なるサバイバルは終わりを告げる。
彼らがこの原始の地に「絶対的な超文明国家」を打ち立てるための、大いなる宣言の時が迫っていた。




