第27話:神業のメスとペニシリン無き死闘
オンドル小屋の中は、息苦しいほどの熱気に包まれていた。
「お湯が沸いたぞ! ガンガン煮沸しろ!!」
郷田と東が、小屋の中の荷物をすべて外へ放り出し、かまどに大量の薪をくべて火を焚きまくっていた。
泥一つない乾いた床。充満する高温の水蒸気。
ここは原始の森において、彼らが物理的に作り出せる限界の「無菌室」であった。
「ニカンを床に寝かせろ。心臓より高く上げていた足はそのままキープだ」
泥だらけの九条と鬼頭が、意識混濁状態のニカンを慎重に床へ横たえる。
冴島はすぐさま煮沸した湯で自らの手と腕を徹底的に洗い流し、ニカンの右足の凄惨な傷跡を凝視した。
『……最悪だ。倒木に潰されたことによる重度の挫滅。筋肉組織が完全にミンチ状態になり、大腿動脈の枝から出血が続いている』
冴島の脳内で、冷酷な臨床医としての計算が猛烈な勢いで弾き出される。
『一刻も早く壊死した肉を切り捨て(デブリードマン)、切れた血管を見つけ出して縛り上げ(結紮)、徹底的に洗浄しなければならない。だが……』
冴島は振り返り、火の前にいる真野を見た。
「真野! 頼んでおいた『アレ』はできてるな!? 前に作った打製石器のナイフじゃ駄目だ、細胞の断面を潰さずに肉をスライスできる超極薄の『メス』が要る!」
冴島の鋭い声に、真野は顔を煤だらけにしながら、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「誰にモノ言ってんだ。テメェが前に『解剖用の刃物が欲しい』ってボヤいた時から、専用のケースに入れて準備してある」
真野は壁際の荷物から鹿革のポーチを取り出し、中から大切に布で包まれた数本の「黒い刃」を取り出した。
「黒曜石だ。暇な時にこいつの目(結晶の方向)を読み切って、極限まで薄く剥離させておいた。刃の先端は分子レベル(数ナノメートル)まで鋭利だ。……史実通りなら、現代の鋼のメスすら凌駕するぞ」
冴島が受け取ったそれは、長さ数センチ、柳の葉のような形をした、向こう側が透けて見えるほど極薄の黒曜石の刃だった。
「……完璧だ。最高だよ、お前は」
真野の用意周到さはそれだけではなかった。
木の枝を削って火で炙り、絶妙な弾力を持たせた「数種類の木製ピンセット」までもがポーチから取り出される。
それらの事前準備された手術器具と、村で調達していた細く強靭な「植物の繊維(麻)」が、次々と沸騰する鍋の中へ放り込まれ、グツグツと煮沸消毒されていく。
『……縫合糸に動物の腱や腸を使う手もあるが、未処理の異種タンパク質は激しい拒絶反応(異物肉芽腫やアナフィラキシー)を引き起こすリスクが高すぎる。ここは十分に煮沸消毒した植物繊維を非吸収性糸として使い、後で抜糸する方が確実だ』
冴島の脳内で、使用するマテリアルのリスク評価が瞬時に完了する。
***
「さて……ここからが地獄だ」
冴島が、煮沸した熱湯から木のピンセットを使って黒曜石のメスを引き上げる。
「麻酔はない。痛さでショック死するリスクもあるが、ここでやらなきゃ確実に敗血症で死ぬ」
冴島は、ニカンを取り囲んで立つ巨漢の男たちを見回した。
「九条、鬼頭、郷田、東! こいつの四肢を全力で押さえつけろ! メスを入れた瞬間、激痛で確実に狂乱する! 1ミリでも動かせば、俺のメスが神経を切り裂くぞ!」
「了解した」
「任せろ」
九条がニカンの右腕を、鬼頭が左腕を。
郷田が健常な左足を、東が上半身を、それぞれ全体重をかけてガッチリと床に押さえつける。
冴島は深呼吸をし、臨床医としてのスイッチを完全に切り替えた。
その瞳から、一切の感情が消え失せる。
「……オペを開始する」
冴島の手首が僅かに動き、黒曜石のメスがニカンのひしゃげた太ももに滑り込んだ。
「――――――っ!!!! ぎ、ぁあああぁぁぁぁぁぁっ!!!」
肉を切り裂かれた瞬間。
意識が混濁していたはずのニカンが、眼球が飛び出んばかりに見開き、人間の限界を超えた絶叫を上げた。
凄まじい火事場の馬鹿力で全身の筋肉が跳ね上がり、男たち4人がかりでも体が浮き上がりそうになる。
「クソッ、凄い力だ! 押さえろ東!」
「分かってる! 暴れるな!!」
男たちが歯を食いしばり、力ずくでニカンを床に縫い留める。
ニカンの絶叫が小屋に響き渡る中、冴島の表情は微塵も揺るがなかった。
『……真野の作った黒曜石の切れ味、凄まじいな。全く抵抗がない』
冴島の右手が、魔法のような速度で動く。
木製のピンセットで肉をつまみ上げ、メスで泥にまみれた壊死組織を的確に、かつ容赦なく削ぎ落としていく(デブリードマン)。
黒曜石の刃は細胞を潰さないため、切断面からの無駄な出血が驚くほど少ない。
「血管見つけたぞ! 止血代わりだ、真野、そこを指でつまんで圧迫しろ!」
「おう!」
真野が熱湯で消毒した指で、切れた動脈の端をピンポイントでつまみ上げる。
冴島は素早く煮沸済みの植物繊維(糸)をピンセットでくぐらせ、鮮やかな手つきでキュッと縛り上げた(結紮)。
ドクドクと湧き出していた赤黒い血が、ピタリと止まる。
「よし、動脈の結紮完了。……次だ。折れた骨の接合と、徹底的な洗浄に入る!」
冴島の指示が次々と飛び交い、汗と血にまみれた死闘が続く。
それは、現代医学のロジックと、極限まで研ぎ澄まされた職人技が融合した、文字通り「奇跡の魔改造医療」であった。
***
「……ハァ、ハァ……!」
オンドル小屋の重い木の扉が、バンッと開け放たれた。
息を切らし、泥だらけになったアナヒータが、大量の樹皮と壺を抱えて飛び込んできたのだ。
「ヤナギと……蜂蜜……持ってきました……っ!」
彼女が顔を上げた瞬間、その光景に言葉を失った。
床は血の海と化し、ニカンを取り囲む異邦人たちの体は真っ赤に染まっている。
ニカンの顔は死人のように青ざめ、ピクリとも動いていない。
『あぁ……精霊よ……。やはり、砕けた足を治すなど、不可能なのだ……』
アナヒータが絶望に膝から崩れ落ちそうになった、その時。
「遅いぞアナヒータ。早くそっちへ寄越せ」
血まみれの冴島が、振り返りもせずに冷酷な声で命じた。
「……え?」
アナヒータは目を見開いた。
よく見ると、ニカンの胸は、弱々しくもしっかりと上下に動き、呼吸を繰り返していたのだ。
そして彼の右足からは、あんなに大量に流れ出ていた血が、完全に止まっていた。
『生きている……? あれだけの血を流し、肉が千切れていたのに……命が、繋ぎ止められている……!?』
「突っ立ってる暇はない。そのヤナギの樹皮を鍋にぶち込んで煮出せ。天然の鎮痛解熱剤(サリチル酸)だ」
冴島が、血のついた黒曜石のメスを熱湯の鍋へ放り込み、鋭い眼光でアナヒータを睨みつけた。
「手術は成功した。……だが、ここからが本番だ。抗生物質のない環境下での、見えない敵との戦争だぞ」




