第26話:事後対応(トリアージ)と即席の無菌室
嵐が過ぎ去った直後の川辺の村は、凄惨な泥濘と化していた。
吹き飛ばされた住居の残骸、根元から折れて倒れ込んだ巨木。
そして、その下敷きになった村人たちの悲鳴と呻き声が、濁流の音に混じって響き渡っている。
泥だらけの斜面を駆け下りてきた九条たち6人は、その地獄のような惨状を前にして足を止めた。
「……ひでえな。完全に村の機能が崩壊してる」
東が顔をしかめながら呟く。
「九条様! あそこ! 長老様たちが……!」
アナヒータが悲痛な声を上げ、倒壊した住居の跡地を指差した。
そこでは、長老ワパナキをはじめとする無事だった村人たちが、倒木の下敷きになって動かなくなった家族に取りすがり、泣き叫んでいた。
あちこちでパニックが起き、誰をどう助ければいいのか完全に統率が失われている。
九条は冷徹な目で現場全体を数秒間スキャンし、隣に立つ男へ視線を向けた。
「……冴島」
「ああ。分かってる」
普段は気怠げに無精髭を撫でている冴島陸の纏う空気が、この瞬間、完全に変質した。
白衣の代わりに纏った獣の毛皮の下で、彼の目は「研究者」のものから、修羅場をくぐり抜けてきた「臨床医」のそれに切り替わっていた。
「これより俺が現場の指揮を執る。九条、お前も俺の手足として動け」
「了解した。全員、冴島の指示に従え」
九条の即答を受け、冴島は泥だらけの広場へと足を踏み出し、よく通る声で鋭く言い放った。
「トリアージを開始する! アナヒータ、俺の言葉を村の連中に叫べ! 『泣くのをやめろ、動ける者は私の指示に従って重い木を退かせ』だ!」
アナヒータは一瞬ビクッと肩を震わせたが、冴島の放つ異常な気迫に押され、大声で母語を叫び始めた。
***
『……現代医療のインフラも、輸血パックも、抗生物質もない状況でのマス・ギャザリング(多数傷病者)事案。感情を交えれば、助かる命まで取りこぼすぞ』
冴島は内心で冷酷に計算しながら、泣き叫ぶ村人たちを掻き分け、倒木の下敷きになっている者たちの間を凄まじい速度で動き回った。
「アナヒータ! こいつはどうですか!」
タラックが、頭から大量の血を流して倒れている老人を抱き起こして叫ぶ。
冴島は老人の頸動脈に二秒だけ指を当て、瞳孔を確認した。
「……黒だ。脈なし。頭蓋底骨折で脳髄液が漏れてる。置いて次へ行け」
「え……? でも、まだ体が温かい……!」
「いいから置け!! 死人に構うリソースはない!」
冴島はタラックを怒鳴りつけ、すぐ横で足の骨を折って泣き叫んでいる子供を一瞥した。
「そっちは緑だ! 痛いだけで死なない! 放置しろ! 声を出して泣けている奴は後回しだ!」
冴島のその冷酷すぎるトリアージ(命の選別)に、長老ワパナキが怒りで顔を真っ赤にして詰め寄った。
「悪魔め……! 息を引き取ろうとしている者への祈りすら妨げ、痛みに泣く子供を無視するなど……っ!」
ワパナキが杖を振り上げようとした瞬間、郷田がその前に立ちはだかり、巨大な丸太のような腕でワパナキを軽々と突き飛ばした。
「すっこんでろジジイ。プロの邪魔をするな」
「長老。彼の判断が、この村で最も多くの命を救う『最適解』だ。黙って従え」
郷田と九条が物理的な壁となり、冴島の処置エリアからパニックを起こす村人たちを完全に隔離する。
その直後、倒壊した小屋の奥から、くぐもった微かな呻き声が聞こえた。
「……こっちだ! 郷田、鬼頭! この木をどかせ!」
冴島が泥水の中に這いつくばり、倒木の下を覗き込む。
太い木の幹の下敷きになっていたのは、テスト農場で冴島の教えを熱心に受けていた若い青年、ニカンだった。
郷田と鬼頭が火事場の馬鹿力で倒木を跳ね除け、真野と東がニカンの体を引きずり出す。
ニカンの右足は太ももの中間から完全にひしゃげ、骨が皮膚を突き破って露出し、ドクドクと赤黒い血が泥水に混ざって流れ出していた。
大量出血によるショック状態で、顔面は蒼白、意識は混濁している。
冴島は即座にニカンの足の付け根(大腿動脈)を全体重をかけて圧迫し、血止めを行った。
「……赤だ。重度の挫滅傷。今すぐ血管を縛って死肉を切除しなければ、確実に出血死か敗血症で死ぬぞ」
冴島は周囲を見渡した。
村の広場は泥だらけで、あらゆる場所に細菌が繁殖している。こんな不衛生な場所でメスを入れれば、助かる命も助からない。
「郷田! 真野!」
冴島が、全体重でニカンの足を圧迫したまま叫ぶ。
「俺たちの拠点を『手術室』にする! あのオンドル小屋は、この一帯で唯一、泥水に浸かってない! 中の物を全部外へ放り出して、火をガンガンに焚いてお湯を沸かせ! 徹底的に煮沸消毒するんだ!」
「おうよ! 東、手伝え! 走るぞ!」
郷田と東が、弾かれたように斜面の上にある拠点へと駆け出していく。
「九条! 鬼頭! こいつの足を圧迫したまま、絶対に心臓より高く上げて拠点まで運べ!」
「了解した」
「任せろ!」
九条と鬼頭が、泥だらけのニカンを抱え上げ、血まみれになりながら急斜面を登り始める。
残されたアナヒータは、その信じられない光景にただ立ち尽くしていた。
彼女の常識では、足の骨が砕けて肉が千切れた者は、精霊に召されるのをただ静かに待つのが「自然の理」であった。
だが、彼らは違う。
死の淵に片足を突っ込んだ命の胸ぐらを掴み、力ずくでこの世に引き留めようとしている。
『……これが、命を扱うということ。大いなる自然の理(死)にすら、力で抗うというのか……!』
「アナヒータ! 突っ立ってる暇はないぞ!」
冴島の鋭い声に、アナヒータはハッと我に返った。
「柳の樹皮をありったけ引っぺがして集めろ! それから、村の備蓄から『蜂蜜』を全部持ってこい!」
「ヤナギと……蜂蜜、ですか?」
「そうだ! 一秒でも早く持って、拠点(手術室)へ上がってこい! 死闘になるぞ!」
冴島は泥だらけの顔のまま、血走った目で斜面の上を睨みつけた。
抗生物質も、近代的な手術器具も、麻酔すらない原始の森。
その絶望的な環境下で、現代医学のプロフェッショナルによる、執念の「魔改造医療」の幕が切って落とされようとしていた。




