第24話:日常の防災インフラと、突発するゲリラ豪雨
季節は春を通り越し、じっとりとした初夏の熱気を帯び始めていた。
「おい! そこの溝、もうあと二十センチ深く掘れ! 壁面の突き固めが甘いぞ!」
拠点であるオンドル小屋の周囲で、郷田の怒号が響き渡っていた。
彼の指示のもと、カヤをはじめとする先住民の若者たち数人が、汗だくになりながら拠点をぐるりと囲むように「深い排水溝」を掘り進めている。
さらに小屋の基礎部分には大量の土砂が盛られて叩き固められ、壁面には太い丸太が筋交いのように何本も打ち付けられていた。
木陰に座り込み、涼みながらその様子を眺めていた東が、呆れたように長いため息を吐いた。
「……なあ、郷田。いくらなんでも過剰品質すぎないか? ただの仮設拠点にそこまでリソースを割く意味が分からない。俺の計算じゃ、今の強度でもちょっとした嵐くらいなら余裕で耐えるはずだぞ」
郷田は額の汗を手の甲で拭い、東をギロリと睨んだ。
「お前は机上の数字だけでモノを見てるからそう言うんだ。現場じゃ、計算外のことが起きるんだよ」
「郷田の言う通りだ、東」
拠点の入り口から、九条が冷徹な声をかけて歩み出てきた。
その手には、周辺の地形を書き込んだ木簡が握られている。
「ここは俺たちがいた現代日本じゃない。アメダスも、気象レーダーも、過去の降水量データも存在しない『完全なブラックボックス』だ」
九条は東を見下ろし、淡々と事実を突きつける。
「データがない状況において、リスクマネジメントの基準値は『常に最悪を想定すること』だ。この大陸の夏がどれほど狂った気象を生み出すか、全く予測が立たない以上、平時からインフラをガチガチに固めておく以外の選択肢はない」
『……俺たち現代人は、天気予報というチートに慣れすぎている。一時間後に雨が降る、風速何メートルの台風が三日後に来る。それが事前に分かることが、どれほど異常なアドバンテージだったか』
九条の脳内に、ペンシルベニア周辺の気象についての朧げな知識がよぎる。
大陸性気候の夏は、強烈な熱気と寒気の衝突により、局地的にとんでもない気象現象を引き起こすことがある。
「基礎の補強が終わったら、次は屋根だ。突風で吹き飛ばされないよう、重い石を等間隔で配置しろ」
九条の冷酷なまでの徹底ぶりに、東は「はいはい、ブラック現場の鑑だな」と肩をすくめ、降伏するように両手を挙げた。
***
一方その頃。
九条たちの拠点から少し離れた川辺の低地にある、先住民たちの村。
そこには、穏やかで平和な初夏の空気が流れていた。
女たちは川辺で笑い合いながら衣類や毛皮を洗い、子供たちは浅瀬で水遊びに興じている。
長老ワパナキは、村の広場からそののどかな光景を細めた目で見守っていた。
『水は命の源。大いなる精霊の恵みだ』
彼らの村は、数百年前からずっとこの水辺の低地に集落を構えてきた。
生活用水を確保するのに最も合理的(便利)な場所であり、水運や漁の拠点でもあるからだ。
住居は木の枝と樹皮を編み込んだ簡素な構造であり、風通しが良く、夏の暑さを凌ぐのには適していた。
『あの異邦人たちは、あんな斜面の途中に分厚い壁の小屋を建て、土を掘り返して無駄に汗を流している。……やはり、自然の理を分かっておらぬ』
ワパナキは、遠く斜面の上に見える九条たちの拠点を見上げ、小さく鼻で笑った。
彼ら先住民にとって、自然とは「恐れるもの」であり「受け入れるもの」であって、「抗うもの」ではなかった。
嵐が来れば身を潜め、家が壊れればまた一から簡素な家を建て直す。それが彼らの数百年にわたる絶対的な常識であった。
だが、この日の空は、そんな彼らの常識すらも一瞬で粉砕するほどの「異常な狂気」を孕んでいた。
***
午後二時。
空に異変が起きたのは、文字通り「一瞬」のことであった。
「……ん?」
屋根の補強作業をしていた郷田が、ふと手を止めて空を見上げた。
さっきまで突き抜けるような青空だった西の空が、まるで黒インクをぶち撒けたように、どす黒く染まり始めている。
『……なんだあの雲。積乱雲(かなとこ雲)か? いや、発達速度がおかしすぎる……!』
郷田の背筋に、現場監督としての本能的な危機感が粟立った。
観天望気で天候を予測する暇すらない。巨大な冷気の塊が、上空で凄まじい速度で凝結し、一気に地表へ向かって落ちてこようとしている。
「おい! 全員作業を止めろ! 中に入れ!! 急げ!!」
郷田のただならぬ怒号に、カヤたち若者や東が弾かれたように小屋の中へ駆け込む。
九条もまた、空の異常な暗さに目を細め、静かに小屋の中へ身を滑らせた。
直後。
ゴォォォォォォォッ!!!
耳をつんざくような爆音と共に、空から「水の壁」が落ちてきた。
ゲリラ豪雨。それも、現代日本の都市部すら数分で水没させるレベルの、局地的な超大雨。
さらに恐ろしいのは、雨だけではなかった。
「……ダウンバースト(マイクロバースト)だ!」
東が、小屋の隙間から外を見て悲鳴のような声を上げた。
上空から冷気が巨大な塊となって地表に叩きつけられ、放射状に広がる猛烈な突風。
バキバキバキッ!!
周囲の森の木々が、凄まじい風圧で根元からへし折られ、宙を舞う。
視界は完全に白く染まり、一メートル先すら見えない。
まるで、神が巨大なハンマーで大地を直接殴りつけているかのような、絶対的な暴力。
「……クソッ! 気象レーダーもなしに、こんなモンをどうやって予測しろってんだ!!」
東が頭を抱えて叫ぶ中、九条だけは冷静に、隙間から外の惨状を観察していた。
オンドル小屋は、激しい風圧を受けてギシギシと軋みを上げているが、郷田がガチガチに固めた基礎と補強材のおかげで、吹き飛ぶ気配は微塵もなかった。
滝のように降り注ぐ雨水も、深く掘られた排水溝を勢いよく流れ下り、小屋への浸水を完璧に防いでいた。
『平時のインフラ構築。……俺たちのリスクマネジメントは間違っていなかった』
九条は小さく頷き、そして、視線を遥か下の「村」がある方向へと向けた。
「……郷田。あの低地の村、この雨量と風だとどうなる」
郷田は顔を青ざめさせ、ギリッと歯を食いしばった。
「あの簡素なテントじゃ、このクラスの突風を受けたら一溜まりもねえ。……それに、川辺の低地だ。鉄砲水が来たら、完全に呑まれるぞ」
***
その頃、低地の村は、文字通り「地獄」と化していた。
「ぎゃあああっ!!」
「精霊がお怒りだ! 逃げろ!!」
予測不能の猛烈な突風により、樹皮で編まれた村の住居は、まるで枯葉のように次々と天高く吹き飛ばされていた。
太い木の枝が空から降り注ぎ、逃げ惑う人々の体に無慈悲に突き刺さる。
そして何より恐ろしいのは、狂ったように水かさを増していく「川」だった。
『おおお……なんという……っ!』
長老ワパナキは、吹き飛んだ住居の残骸にしがみつきながら、絶望の涙を流していた。
彼らが恵みと信じて疑わなかった穏やかな川は、今や濁った黄土色の牙を剥く「巨大な龍(濁流)」と化し、村の大部分を瞬く間に水底へと引きずり込もうとしていた。
事前の避難指示も、天候の予測も不可能な世界。
ただ「そこに住んでいた」というだけで、命が理不尽に刈り取られていく。
自然界においては、「平時のインフラ(防災対策)」の有無こそが、生死を隔てる絶対的で冷酷な境界線であった。




