第105話:空間の消滅と、巨大都市の歪み
建国7年の冬。
帝都の中枢に位置する、九条の指令室。
室温は温水床暖房によって完璧に管理され、外の極寒を微塵も感じさせない。
その部屋の中央に置かれた特注のデスクで、真鍮製の奇妙な機械が、突如として甲高い音を鳴らし始めた。
カチッ、カチカチッ、ターン……カチッ。
東が気怠げな表情で機械に寄りかかり、吐き出されていく細長い植物紙のテープを見つめている。
テープには、インクのついた針によって「長点」と「短点」の記号が次々と刻み込まれていた。
「……来たぜ、九条。第一期区間の終点、内陸のターミナル駅からの初回テスト送信だ」
「解読しろ、ヨキ」
九条の短く冷徹な指示を受け、待機していたヨキが素早く紙テープを手に取り、手元のプロトコル表(モールス信号解読表)と照らし合わせる。
「はい。……『T・O・U・C・H・A・K・U』。……『到着』。続いて、『I・J・O・U・N・A・S・I』。……『異常なし』。定刻通り、貨物列車が到着したとのことです!」
ヨキの声が、興奮で微かに上ずっていた。
無理もない。ここから内陸の駅までは、約三十キロも離れている。馬を全力で走らせても、泥道や雪があれば数時間はかかる距離だ。
それが今、発信者が打鍵機を叩いたのと「全く同時のタイミング」で、帝都の指令室に伝わったのだ。
「……物理的な距離による『時間の遅延』が、完全に消滅したか」
九条は静かに立ち上がり、窓の外、黒煙を吐き出す重工業エリアを見下ろした。
『鉄道という絶対的な動脈が物質を運び、有線電信という神経が意思を光の速度で伝達する。……これで帝国は、もはや点の集まりではなく、一つの完璧な生命体として機能し始める』
「東。この銅線を、いずれ建設されるすべての拠点、すべての防衛線へと張り巡らせるぞ。俺の命令が、帝国の末端まで遅延ゼロで届くようにシステムを拡張しろ」
「分かってるよ。だが、情報網を処理する『脳みそ』の方が先にパンクするぜ。……人間の処理能力には限界がある。いずれ、俺たちが手作業で計算しなくても済むような、電子の速度で動くバケモノ(計算機)が要るようになる」
東の言葉に、九条は小さく頷いた。
圧倒的な富と、リアルタイムの完璧な情報統制。
物理法則と情報科学を駆使した帝国は、建国7年にして、ついに人類の限界を突破する神の領域へと足を踏み入れようとしていた。
***
しかし、その眩いばかりの「光」の足元には、彼らの計算を狂わせる巨大な「影」が膨れ上がりつつあった。
帝都を囲む、分厚く高くそびえ立つコンクリートの外壁。
その外側に広がる荒野では、吹き荒れる冬の吹雪の中、寄せ集めの木っ端や汚れたテントで身を寄せ合う数百人もの者たちがいた。
突如として出現した『スラム』である。
彼らは決して、為政者の暴政によって無差別に切り捨てられたわけではない。
巨大な機械都市となった帝都の「内側(居住区)」に入るためには、事故を防ぎ、数万人規模の治安を維持するための『帝国標準語(ローマ字)』の習得と、厳格なルールの遵守が絶対条件だった。
そのため、豊かさを求めて遠方からやって来た移民たちは、まず外壁に隣接する『労働キャンプ』への滞在を義務付けられる。そこは、シフト制の8時間労働と引き換えに、帝都内と変わらない温水床暖房、豊富な食事、上下水道が完備された「極めて安全で快適なホワイト環境」であり、帝国標準語の教育支援まで無償で提供されていた。
だが――すべての人間が、その「文明の規律」に適応できたわけではない。
「……なんで、俺たちはこんなところで凍えてなきゃならねえんだ……!」
薄汚れた毛皮に包まった男が、煌々と白熱電球の光を放つ帝都の防壁と、隣接する労働キャンプを、血走った目で睨みつけた。
壁の向こうからは、風に乗って肉を焼く匂いや、楽しげな音楽の調べが微かに漏れ聞こえてくる。
「あんな窮屈な時間管理なんて、耐えられるかよ……。どうして俺たちだけ……!」
スラムに吹き溜まっているのは、帝国の『時間管理と衛生観念』という規律に耐えられず労働キャンプから逃げ出した者や、怠慢、窃盗、暴力沙汰といった明確な『自らの落ち度』によって追放された「落伍者」たちだった。
自分自身の責任で豊かな環境から弾き出されたにも関わらず、飢えと寒さは彼らの理性を奪い、理不尽な格差に対する「逆恨み」をドス黒い憎悪へと変えていた。
行き場を失った落伍者たちは、帝都の外壁にへばりつくようにして、不衛生極まりないスラムを形成していったのである。
***
「……急げ! 隔離エリアの基礎工事を急がせろ! 年内に建屋と下水道を繋がねえと、手遅れになるぞ!」
統治局では、郷田が血走った目で土木部隊に怒号を飛ばしていた。
九条もまた、眉間を深く揉みほぐしながら、人員配置のパズルを必死に組み替えている。
為政者である彼らは、スラムの存在を決して放置していたわけではない。
『自業自得の連中とはいえ、あそこは不衛生すぎる。未知の疫病の培養炉になる前に、強制的にでも隔離施設を建て、下水道を繋いで彼らを衛生管理下に置かなければならない』
公衆衛生のトップである冴島の強い警告を受け、九条と郷田は急ピッチで壁の外側に「落伍者用の強制隔離・浄化施設」の拡張工事を進めていたのだ。
だが、どんなに重機があり、どんなに優れたグランドデザインがあろうとも、コンクリートが固まるまでの時間や、配管を敷設するための「物理的な時間」をゼロにすることはできない。
「落伍者が増え、スラムが膨張するペースが、我々のインフラ建設速度を完全に上回っている……!」
対策は打っていた。スラムを浄化する計画は進んでいた。 だが、彼らの想定以上に「規律を守れない人間の数」が多すぎた。
圧倒的な愚か者のうねりが、帝国という機械都市の処理能力を物理的にオーバーヒートさせようとしていた。
***
「ゲホッ、ゲホッ……! ヴッ……」
極寒のスラム。
排泄物が放置され、不衛生極まりないテントの一つで、激しく咳き込み、嘔吐する子供の声が響いた。
「……おい、大丈夫か? ただの風邪じゃねえ……また熱が上がってやがる……」
母親らしき女が、高熱に浮かされて震える子供を抱きしめる。
その子供の首筋には、通常の風邪では見られない、不気味な黒い斑点が浮かび上がっていた。
「……誰か、薬を……」
彼らのすぐ数十メートル先には、温水床暖房と豊富な医療物資を備えた帝都がそびえ立っている。
だが、その分厚い壁が、彼らを物理的に隔絶していた。
帝国の建設速度と、自然界のウイルスの培養速度。
その残酷なタイムレースは、帝国がインフラ拡張を終えるほんの少し前に――最悪の形で決着の時を迎えようとしていた。
システムと物理法則を過信したメガシティの足元で、「見えない死の病」の足音が、静かに、しかし確実に鳴り響き始めていた。




