第100話:インクラインと冬の帝都の狂騒
建国6年の秋の終わり。
帝都近郊の「第一期・鉄道敷設」現場には、白い息を吐きながら働く労働者たちの活気が満ちていた。
ダイナマイトという悪魔の兵器によって強固な岩盤は粉砕され、平坦なルートの開拓は劇的な速度で進んでいた。
しかし、自然の大地は彼らに最後の試練を用意していた。
「……郷田さん。やはり、ここから先の約500メートルは、地形的にどうしても迂回できません。ダイナマイトで削り取るにも斜面の規模が大きすぎますし、何より『勾配』がきつすぎます」
冷たい風の中、図面を広げたカヤが、険しい表情で前方の急斜面を見上げた。
「鉄のレールと鉄の車輪の組み合わせでは、粘着力(摩擦)が圧倒的に足りません。この勾配では、機関車がどれだけ馬力を出しても、車輪が空転して登ることは不可能です」
カヤの理路整然とした絶望的な報告。
しかし、土木とインフラの化身である郷田は、ヘルメットの奥でニヤリと笑った。
「ああ、知ってるよ。重力と摩擦の法則ってやつだろ?」
郷田は太い指で、斜面の頂上付近を指差した。
「だったら話は簡単だ。車輪で登れねえなら、上から力ずくで引っ張り上げりゃいいんだよ」
「……引っ張り上げる? 貨車ごとですか?」
カヤが目を丸くする。
***
それから数週間後の、さらに冷え込みが厳しくなった初冬の朝。
郷田の宣言通り、急斜面の頂上にはすでに太いコンクリートの基礎が打たれ、そこには強靭な鉄骨で組まれた巨大な『巻上機』が鎮座していた。
動力源は、真野が造船用の予備として組み上げていた大型のディーゼルエンジンだ。
その圧倒的なトルクを極太の減速ギアで増幅し、巨大なドラムに巻き取られているのは、何百本もの細い鋼線を撚り合わせて作られた『鋼索』である。
「名付けて『インクライン(傾斜鉄道)』だ。……カヤ、下に待機させてる重石満載のテスト貨車に、ワイヤーをロックしろ。試運転を始めるぞ」
「了解しました!」
カヤの合図で、斜面の下に待機していた作業員たちが、ワイヤーの先端にある強固なフックを貨車の台枠にガッチリと固定する。
退避の完了を確認した郷田が、ウィンチの操作レバーを力強く引いた。
ズドドドドォォォォンッ!!
巨大なディーゼルエンジンが黒煙を吹き上げ、猛烈な唸り声を上げる。
「ギギギ……ッ、ギンッ!!」
斜面に沿って張られたワイヤーロープが、極限の張力で真っ直ぐに張り詰め、軋むような高い金属音を鳴らした。
重力に抗い、数十トンもの質量を持つ貨車が、斜面をズルズルと引き上げられていく。
「……すげえ。本当に、山を登っていくぞ……!」
下で見守っていた労働者たちから、どよめきが起こる。
「ガハハハハ! 見たか! 鉄の車輪が滑るなら、ワイヤーでねじ伏せりゃいいだけのことだ!」
郷田はレバーを握りしめながら、腹の底から笑い声を上げた。
どんな地形のボトルネックであろうとも、物理法則に則った圧倒的な動力を持ち込めば、必ず解決できる。
ダイナマイトとインクライン。
この二つのピースが揃ったことで、第一期鉄道の開通を阻む壁は完全に消滅した。
***
一方その頃、厳しい冬の寒さに包まれた帝都の「内側」。
そこは、外の極寒が嘘のような、狂騒と熱気に満ちていた。
「おい、こっちにエールをもう一杯くれ! 肉も追加だ!」
「あっはは! あんた、昨日もそれ言ってベロベロに酔い潰れてたじゃない!」
夜の酒場には、眩いばかりの光が溢れ、帝国市民たちの笑い声が響き渡っている。
建国6年。重工業と超大規模農業の結実により、帝都のインフラは完全にチートの領域に達していた。
各家庭や施設には、工場の排熱を利用した『温水床暖房』が完備され、冬でも薄着で過ごせるほどの暖かさが保証されている。
東が整備した農業プラントからは、一生かかっても食べきれないほどの小麦や野菜が供給され、鬼頭やミカが密造から始めた蒸留酒も、今や立派な娯楽産業として定着していた。
『義務教育(ローマ字と時間管理)』を修了し、労働力として価値を認められた帝国市民たちは、シフト制の労働の対価として、この圧倒的な豊かさを享受していた。
「いやあ、レール敷きの仕事は腰にくるが、終わった後のこの酒と暖かい飯のためなら、いくらでも犬釘を打ち込めるぜ!」
「本当にな。九条様と郷田様々だ。……昔の、冬の度に凍え死ぬ仲間を見ていた日々が嘘みたいだぜ」
彼らにとって、帝国とは命を繋ぐ絶対的な庇護者であり、神の国に等しかった。
***
しかし、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた濃くなる。
「……寒い。……腹が減った……」
帝都の高くそびえるコンクリートの『壁の外』。
冷たい北風が吹きすさぶ中、ぼろ布を纏い、身を寄せ合うようにして震えている者たちがいた。
彼らは、帝都の噂を聞きつけて集まってきた難民や、帝国の『時間管理』という規律に耐えられず、労働キャンプから逃げ出した極小数の落伍者たちである。
九条と郷田は、都市計画の段階で、ルールを守れない無法者が入り込むことによる治安の悪化と、それに伴う『水源の汚染』を何よりも警戒していた。
そのため、帝都のゲートは厳重に管理され、市民権を持たない者は壁の内側に入ることを物理的に拒絶されている。
「……なんで、俺たちはこんなところで凍えてなきゃならねえんだ……」
暗闇の中、一人の男が恨みがましい目で、煌々と光り輝く帝都の壁を見上げた。
壁の向こうからは、温かな光と、肉を焼く匂い、そして楽しげな音楽が微かに漏れ聞こえてくる。
「……あいつらばかり、ずるい。……あれは、精霊が俺たち全員に与えた恵みのはずだ……」
飢えと寒さは、人間の理性を容易く削り取っていく。
自分たちは何も努力をしていないにも関わらず、理不尽な格差に対する『羨望』は、やがてドス黒い『憎悪』へと姿を変えていく。
壁の外側に形成された、木っ端やテントを寄せ集めた不衛生なスラム街。
そこに吹き溜まった数百人の不満分子たちは、極寒の夜闇の中で、壁の内側の光をじっと睨みつけていた。
圧倒的な文明の光と、そこからこぼれ落ちた絶望の影。
巨大化する帝都の歪みは、確実にその臨界点へと向かって膨れ上がりつつあった。




