第十二話 守:……ノーコメントで
「すぐ終わらせる」
セナにそう告げた俺は、お姫様抱っこの姿勢のまま、ゆっくりと周囲を見回した。
辺りは魔竜の凶行によって激しく破壊され、血と泥にまみれている。怪樹の根が波打ち、湿った苔が広がるこの禍々しい戦場は、傷ついた彼女を休ませるにはあまりにも不釣り合いで、劣悪な環境だった。
俺は【無限暗黒倉庫】に瞬時にアクセスし、俺の魔力で編んだ極上の肌触りを誇る純白『魔天絹』を取り出した。
魔力でそれをごく自然に空中に展開し、ふかふかの敷布団なるように魔力で固定する。
その上に、まるで壊れやすい宝物を扱うように、優しくセナの体を横たえた。
改めて間近で見る彼女の肉体は、想像以を絶する凄惨な状態だった。
純白で透き通るようだったその肌は無残に切り裂かれ、生々しい肉の断面がそこかしこで剥き出しになっている。抉れた傷口からはどす黒い鮮血が絶え間なく溢れ出し、純白の『魔天絹』を容赦なく赤黒く染め上げていく。
服が完全に引き裂かれた背中に至っては、赤く爛れた肉の深くまで魔竜の凶悪な爪跡が食い込んでおり、内臓の損傷も相まって、もはや直視することすら躊躇われるほどの痛々しさに満ちていた。
視界の全てを覆い尽くさんとする、圧倒的な深紅。
憤怒で奥歯が軋む。だが、今は治療が先だ。
俺はセナの額に、静かに、けれど祈るようにそっと手のひらを乗せた。
【聖癒の領域:極点】
きっとこの時の為に極限まで追い求めた聖魔術の術式が、音もなく発動する。
溢れ出た暖かな純白の光が、セナの全身を包み込んだ。
効果は劇的だった。
激しく損傷していた体内の臓器が瞬時に繋がり、骨の軋みが消えていく。
生々しい断面を晒していた両腕の裂傷はみるみるうちに塞がり、全面が盛大に抉れていた背中の悍ましい重傷も、元の絹のように滑らかな白い肌へと瞬く間に修復されていった。
セナの身体を汚していた大量の血痕や泥は、俺の洗浄術式によって隅々まで綺麗に洗い流される。
そして、失われてしまった元の服の代わりに、『魔天絹』の肌に優しく風通りのいい、純白のパジャマのような服を彼女に着せた。
よし、傷一つない。完璧だ。
ただ、心に刻まれた恐怖と体への負担は計り知れない。
俺は治癒の光に、深い眠りの術式をほんの少しだけ混ぜ込み、彼女の意識を心地よい眠りへと誘った。
「……すー……すー」
規則正しい、可愛い寝息が純白の敷布団の上から響き始める。
完全に眠りに就いた彼女の呼吸に合わせるように、俺はもう一枚別の『魔天絹』を上からフワリと、冷えないようその身体に優しく毛布のようにかけてやった。
これでよし。
セナが毛布の端を掴んだのを確認し、俺はゆっくりと立ち上がった。
声なき激情に呼応し、漆黒の魔力が音もなく吹き荒れ、周囲の空間が歪んでいく。
グルゥゥゥゥ……!
突如として出現した、世界の理さえ書き換えかねない測定不能の膨大な魔力を察知したのだろう。
SSS級魔獣【懐絶の魔竜】が、その禍々しい単眼を激しく揺らし、本能的な死の恐怖にかられたように数歩後ずさった。
だが、支配者としてのプライドが勝ったのか、奴は三度巨大な顎を開き、その奥で昏い蒼白の熱線が最大出力へと集束し始める。
周囲の怪樹が、その余波熱で一瞬で黒ずみになっていく。
俺は無言だった。
いつもの芝居がかった台詞も、おどけたハッタリも、今の俺の口からは一切出てこない。
ただ、冷徹で底知れない怒りだけが、胸の奥で静かに、けれど狂おしい程に燃え上がっていた。
『魔天絹』の上に横たわるセナの、先ほどまで無残に引き裂かれていた白い肌。
術式によって傷は塞がった。汚れも消えた。
だが、彼女をそこまで追い詰め、その心をグズグズに泣き叫ばせた目の前のトカゲに対する激しい憤怒が、俺の右腕へと爆発的に集束していく。
許せなかった。
くだらないハッタリで彼女を傷つけた自分自身も、彼女を踏みにじり、その尊厳を笑った目の前のトカゲ野郎も、全てが。
グルゥゥゥ……!
魔竜の喉奥に集束した蒼白の熱線が、限界を超えて解き放たれた。
山脈を、空間すらも一瞬で焼き焦がす絶対的な滅びの光軸が、一直線に俺へと殺到する。
俺は一歩も動かない。
防御すらもしようとしなかった。
そんなもの、今の俺には必要ない。
セナを傷つけたそのブレスごと、奴をただ殺す。
それだけだ。
右腕の制動を、完全に解く。
「黒龍、奴を殺せ」
静かに言い放った瞬間、俺の右腕から噴出した漆黒の魔力は、この世の光を全て食らい尽くさんとする『巨大な黒き龍』そのものとなって空間を割って具現化した。
ヴァァァァァアアアッッッ!!!
空間をかみ砕きながら突撃した黒炎の巨龍は、魔竜の極大ブレスを正面から完全に押し潰し、飲み込みながら、魔竜の巨躯へと容赦なく喰らいついた。
ギャッ!? ガァァァァァァァァァッッッ!?!?!?
山脈全体を震わせる、凄惨な絶裂の叫び。
絡みついた漆黒の龍は、魔竜の頑強な結晶鱗を一瞬で融解させ、その肉体へと牙を突き立てた。
ジュウウウウウウッ、と肉の焼ける悍ましい音。
黒龍は魔竜の肉を、骨を、内側からドロドロの肉汁と炭の塊へと変えながら融解させていく。
俺の怒りをそのまま体現したかのように、黒龍は容赦なく奴の肉を貪り、焼き尽くしていく。
のたうち回る魔竜の身体から激しい熱膨張によって肉片が周囲に飛び散るが、その肉片すら、黒龍が身にまとう外炎の超高温に灼かれ、地面に落ちる前にどす黒い気体となって消えていく。
数秒の後、そこには悲鳴の残響すら残されていなかった。
数多の精鋭を屠ってきたSSS級魔獣は、一滴の血、一片の骨すら残さず、ただ大地ごと黒龍によって殺され、虚無が広がる巨大なクレーターだけを残して、完全消滅した。
標的を殺し尽くした黒龍は、天に向かって凱歌の咆哮を上げると、みるみるうちにその巨躯を凝縮させ、一本の黒い雷光となって俺の右腕へと吸い込まれていった。
俺は右腕から立ち上る黒煙を静かに見つめ、フッと息で吹き消した。
小さな笑みを浮かべ、振り返れば、ふかふかの布団の上で、セナが「すー……すー……」と、穏やかな寝息を立てて眠っている。
元のボロボロの服を消し去り、新しい純白のパジャマを着せたのは、あくまで衛生面を考慮してのこと。
彼女の心と体を守るため、そこに他意は一切ない。
山脈の空気は澱んでいる。
これ以上、傷の癒えたばかりの彼女をこんな不衛生の場所に留めておくわけにはいかなかった。
俺はセナを起こさないよう、細心の注意を払いながら魔力を操作した。
彼女が横たわるふかふかの布団全体を、そっと空間の檻で包むようにして隔離する。
「……宿へ戻るぞ」
小さく呟き、俺は『白銀の残響亭』の特等室へと空間を接続する。
禍々しく、不気味なゲートに足を踏み入れ、ベッドの上へと音もなく、揺れ一つなく滑らかに滑り込んだ布団の上で、セナは毛布の端を掴んだまま、何事もなかったかのように可愛い寝息を立て続けている。
完璧な転送。
彼女の安眠は、最後まで完全に守られた。




