第十一話 これめちゃくちゃカッコよかったよな……俺に惚れんなよ。(セナ:ばか……)
「バカ! 変態! DT! アホ! クズ!」
切り立った鋭い岩肌と、日光を遮るほどに巨大化した怪樹の根がうねる急斜面を、セナはなりふり構わず駆け上がっていた。
「なによ……なによアイツのバカぁ……っ!」
溢れそうになる涙を、泥にまみれた細い腕で乱暴に拭う。
怒りに任せて守を突き放し、一人で突っ込んできた山脈の森は、想像を絶する絶望に満ちていた。
常人は立ち入ることすらできない広大な未踏の地。
頭上を完全に覆い尽くす黒い巨木の母太陽の光の一切を遮断し、昼間であるはずの周囲を不気味な薄闇で満たしている。
足元は踏み出すたびに沼のように沈み込む腐葉土と、大蛇のようにのたうつ怪樹の根。
整備された王都の道とは何もかもが違い、一歩進むだけで足首や太ももを鋭い茨が容赦なく引き裂いていく。
それでも、セナは歩みを止めない。
父と約束したから。
冒険者になるのなら、いついかなる時も民を思う行動をとる、と。
そのために、まずは魔竜を倒す。
その信念で、どれだけ歩いただろうか。どれだけ走っただろうか。
引き返そうにも、すでに自分がどこにいるのかすら分からない。
冷え切っていく頭の片隅で、先ほどの守の強張った表情がよみがえる。
(……悪気があったわけじゃ、ないかもしれないのに……っ)
いつもあんな痛いセリフばかり吐く大バカ者だ。
彼なりのやり方で、怯える自分を気遣ってくれたのかもしれない。
なのに、それを一方的に化物だと責め立てて飛び出してしまった。
胸をチクチクと刺す罪悪感が、身体の疲労と会いまったセナの心を容赦なくすり潰していく。
その時、森の全ての音が、ピタリと止んだ。
虫の羽音すら消え去った異常な静寂。
――グルゥゥゥゥ…………
地鳴りのような重低音が、足元の泥からセナの骨を直接震わせた。
見上げれば、鬱蒼と生い茂る黒い巨木の合間から、巨大な影が、這い出てきた。
全身を漆黒の鱗が覆い、単眼から昏い紫色の閃光を煌めかせる、竜王をも超える天災――SSS級【懐絶の魔竜】だ。
「……っ!?」
魔竜の単眼がセナを捉えた瞬間、彼女の全細胞が「死」を察知して激しく拒絶反応を起こした。そして、そしてセナも瞬時に理解する。
(だめ。こいつには勝てない……)と。
魔竜が大きく顎を開き、その奥で、見る者に恐怖を植え付け、全てを灰に帰すほどの蒼白の熱戦が集束し始める。
「、ああ……っ!」
恐怖で顔を青くしながらも、セナは咄嗟に手を前にかざし、魔力障壁を展開する。
直後、極大の閃光が放たれ、魔力障壁ごとセナを飲み込んだ。
「が、がばぁ……っ!」
岩肌に激しく身体を叩きつけられた衝撃で、内臓が悲鳴を上げ、鉄錆びた味が口いっぱいに広がって溢れ出た。
内臓を激しく損傷し、立ち上がることさえ叶わない。
だが魔竜は、そんな満身創痍のセナを、すぐには殺さなかった。
(――完全に、遊ばれてる)
爆煙の向こうから現れた魔竜は、巨躯に似合わない俊敏さで、地面に這いつくばるセナの背中を、その巨大な爪で容赦なく踏みにじった。
鋭利な爪先が背中を深く切り裂き、そこへ魔竜の凶悪な質量がのしかかり、みしり、と骨の軋む嫌な音が森に響く。
「い、いや、あ、ぁ、ぁ、ぁ、ああああああああ!!!」
激痛と重圧に喘ぐセナの口から、ゴポッ、と先ほどより粘度の高く黒い血が溢れ出た。
魔竜の喉の奥から、ククク、と地鳴りのような低い嘲笑が漏れる。
ちっぽけな人間が見せた必死の抵抗を、この超越者は心底滑稽だと笑っているのだ。
(あはは……笑われてる。私、虫ケラみたいに……)
誇りも尊厳も、圧倒的な暴力の前にバキバキと音を立てて崩れていく。
魔竜は爪先にじわじわと体重をかけ、セナの細い身体を泥の中に深く踏み沈めていく。
息ができない。
肺が押し潰され、本気で死を覚悟して意識が飛びそうになる。
そのたび、巨大な尾が鞭のようにしなり、彼女の脇腹を容赦なく打ち据えて無理やり意識を引き戻した。
「ひぐ、っ……あ、ゲボッ!」
死ぬことすら許されない、終わりのない暴力。
(痛い、怖い、痛い。誰か助けて。どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの)
狂いそうなほどの苦痛の中で、セナの心はグズグズに泣き叫んでいた。
セナが涙土地に濡れ、絶望に顔を歪める様子をじっと観察しながら、魔竜の単眼が愉悦に細まる。小さな獲物が完全に壊れるその瞬間を、この怪物は心から楽しんでいた。
十分におもちゃを弄び、満足したのだろう。
魔竜はセナを踏みつけていた足を引くと、まるで道端に落ちている石を扱うように、その強靭な爪でセナの身体を無慈悲に蹴り飛ばした。
「あが、っ…………!?」
悲鳴すら衝撃に掻き消され、彼女の身体はまるで千切れた人形のように、猛烈な勢いで飛ばされていく。
――その直線上には、刃のように鋭く突き出た、巨大な岩の突起が迫っていた。
無防備な背中からあれに突き刺されば、間違いなく身体が両断される。
死が眼前に迫る中、セナは必死に後ろを振り返った。
木々をなぎ倒しながら執拗に追ってくる魔竜の結晶鱗が不気味な光を放っている。
魔竜は更に残酷な悪意を重ねる。
その巨大な喉奥で、昏い蒼白の熱線が再び集束していく。
周囲の木々が、その余波熱だけで次々と発火していく。
蹴り飛ばした獲物を、鋭い岩へと突き刺し、その瞬間に絶望の熱線で焼き尽くす。
死の直前まで絶望させ、殺す。という、魔竜のサディスティックな拘りだった。
(嘘……本当に、来ないんだ)
セナの胸を締め付けたのは、肉体の痛み以上の絶望だった。
どこかで信じていた。
あのバカみたいに強い男が、またお調子者の顔をして助けに来てくれるんじゃないかって、心のどこかで縋っていた。
でも、現実はそんなに甘くない。
孤独と恐怖が、彼女の心を完全にへし折った。
(誰も来ない。私はここで、誰にも知られずに死ぬんだ。いやだ、いやだ、いやだ、いやだ…………)
岩の突起が、ついにセナの背中に触れるその瞬間。
死を覚悟したセナの脳裏に鮮明によぎったのは、街の屋台で「はい、あーん」をした時の、あの暖かくて少しマヌケな、守の驚いた顔だった。
「いや……! 助けてよ、守……ッ!!」
届くはずのない名前を、プライドも何もかも投げ捨てて、涙で濡れ震えた声で縋りつき、セナはぎゅっと目を瞑った。
直後、セナが激突するはずだった、その岩の突起そのものに時空の裂け目が接続された。
強固な岩壁がまるでガラスのようにひび割れ、凄まじい衝撃波を伴って木っ端微塵に砕け散る。
そこから現れたのは、一人の男。
いつもの芝居がかかった不気味な笑みも、ふざけたキザなポーズもそこには一切無かった。
前髪の隙間から覗くその瞳には、冷徹な憤怒を宿し、漆黒の眼光となって爛々と輝いていた。
男は、背中が岩に激突する寸前の彼女を、無言のまま両腕で抱きかかえた。
猛烈な勢いで吹き飛んで来たセナの身体を、男は極限まで精密化された筋力操作によって、受け止めた瞬間にその全ての衝撃と慣性を完全に無へと受け流す。
砲弾のようだったその凄まじい衝撃は、男の腕の中に収まった瞬間、まるで一枚の羽毛がふわりと舞い降りるかのような軽さへと変わった。
そのまま滑らかな軌道を描き、男はセナの身体をそっと掬い上げる。
「悪い、遅くなった」
低く、けれどどこまでも真っ直ぐに響く声。
「お、遅いよ。守…………」
セナがスカイブルーの瞳を丸くし、呆然と声を漏らす。
あまりの安堵に、それまで彼女の瞳を濡らしていた恐怖は、とめどない安心の涙へと変わり、早鐘を打っていた心臓の音が、別の意味でドコドコと大きく跳ねあがった。
ガルゥゥゥゥ……!
突如として現れた規格外の存在に、SSS級魔獣【懐絶の魔竜】が、その単眼を激しく揺らして後ずさる。
支配者としてプライドを刺激された怪物は、目の前の二人をまとめて焼き尽くさんと、その巨大な顎の奥で、蒼白の熱線を最大出力へと収束させ、今まさに放たんとした。
しかし、守は腕の中のセナを見つめたまま、微塵も動じない。
ただ、自由な片方の視線だけをゆっくりと動かし、眼前の巨大なトカゲを、冷徹な眼光で静かに睨み付けた。
その一睨みだけで、魔竜の喉の奥の熱線が恐怖によって引き攣る。
守はセナの細い腰を優しく、けれど決して離さないという強い意志を込めて抱き直すと、最後に一言、低くハスキーな声で告げた。
「すぐ終わらせる」




