バルシュ
あの魔物が襲う前に、アルテは着くだろうか。長く気を失っていたようで、実はあまり時間が経っていないかも知れない。
そうでなくても、もしかすれば、あちらで手間取っていてすぐにはここへ向かえない状態でいる、ということもありえる。
どうであれ、この場にいるのは自分だけ、という現実は動かせない。
グレイヴァは起き上がろうとしたが、腕の痛みに顔をしかめてまた倒れた。魔物も時々力尽きたように地面に伏せるが、また立ち上がって進み続ける。
こうなると、根性比べだ。
短剣は手元にない。あの崖から落ちる時か、川で流されていた時かに失ってしまった。今は完全に丸腰状態。
相手は弱っていても、牙や爪は失っていない。ますます不利だ。
アルテが来てくれるのを祈るしかないか、と思ったグレイヴァの目に、ある物が飛び込んできた。
河原の石だ。
短剣程に有効でなくても、魔物もかなり弱っているから、これで殴ればどうにか対抗できる。
それに、左手は傷の痛みで動かせなくても、グレイヴァにはまだ右手がある。こちらの腕は健在だ。しかも、利き手。
石を投げて当たれば魔物の前進を止められるし、アルテが来るまでの時間稼ぎにもなる。
弾となる石は、いくらでもあるのだ。少しは有利な立場に立てるはず。
「こ……の、くらいやがれっ」
グレイヴァは、手に触れた石を魔物に向けて投げ付けた。
横たわったままなので最初は外したが、何度も投げるうちに魔物の身体や顔に当たる。思った通り、その度に魔物の足が止まった。
身体を動かせば左手の傷にもひびくが、命がかかっているのだ、なるだけ意識から追い出す。
痛いのは、生きているからだ。生きるためには、この魔物をどうにかしなければ。
魔物は、グレイヴァの投げる石が当たる度に止まったり倒れたりしていた。それでも、ある程度まで距離が縮まると、立ち止まる。
息を切らせ、緑の血をたらしながら、同じ様に息を切らせている獲物のグレイヴァを睨んだ。
ここへ着くまでに、すでに傷だらけだった。このままでは、投げられる石で自分が先にダウンする、と思ったのだろう。
来るか……。
その様子に、グレイヴァも構える。
魔物は狙いを定めるように見据えると、残った最後の力を込めて地面を蹴った。決着をつけるべく、グレイヴァに飛び掛かる。
「させるかっ」
ちょうど次に投げる石を掴んでいたグレイヴァは、その石を魔物の顔面めがけて投げる。
至近距離まで来ていた魔物の顔に、ひときわ大きな石が見事に命中した。魔物の身体がのけぞり、宙を半回転する。
そして、地面に落ちる寸前、煙を出して消えた。
「へへ……ざま……ろ……」
今度こそ、魔物は死んだのだ。
魔物が消滅したのを確認すると、安心のせいか一気にグレイヴァの意識も遠のいてゆく。
消えかける意識の中で、グレイヴァはまた河原の石と石が当たる音を聞いた。別の誰かが来たのだ。
アルテ……やっと、来たのか……な……。
しかし、足音の主を見る前に、グレイヴァは気を失った。
☆☆☆
足音の主は、倒れているグレイヴァへゆっくりと近付いた。
豊かな緑の黒髪が背中へ流れ、濃い緑のゆったりとした衣を身に着けている。その背丈は、アルテよりも頭一つ高い。
中性的な顔立ちは整っているが、どこかいたずらっ子のような表情を浮かべている。
足音の主は、名前をバルシュといった。
「ふぅん……きみ、面白い石を持ってるんだなぁ。ちょっと見せてもらうよ」
一人ごちるその声は、その顔立ちに似合わず低音だ。
長い指が、グレイヴァの胸元にある守水石へ伸びる。
透明な、光の加減によって桃色に見える、石のペンダント。身に着けた時は服の下で隠れていたが、川でもまれているうちに外へ出たらしい。
バルシュはそれを、しばらく指の間で転がす。やがて、グレイヴァの首とひざの後ろに手を入れると、バルシュは軽々と少年の身体を担ぎ上げた。
「場所を変えようか」
「う……」
振動でグレイヴァの口から声がもれるが、意識は戻らない。
グレイヴァを担いだまま、バルシュは山の中へ入って行く。
向かった先には、使われなくなって長い月日が経ったと思われる山小屋が建っていた。
今にも外れて壊れそうな扉を足で器用に開けると、バルシュは中へ入る。小屋の中はほこりだらけだが、残っていたテーブルやイス、ベッドはどうにか使えそうだ。
バルシュがベッドの上のほこりを軽く吹くと、一気にきれいになる。新品とまではいかないものの、まともな状態になったベッドに、バルシュはそっとグレイヴァを横たえた。
自分はベッドの横にイスを持って来て、同じようにほこりを吹いてから座る。
それから、グレイヴァの傷付いた左手を取った。フィノがあてた毒消草を取り除き、傷の具合を調べる。
「うん、余計な抵抗をしなかったようだね。いい子だ」
グレイヴァが聞いていないことをわかっていながら、そう言葉をかける。
「少ーししみるだろうけど、がまんするんだよ。いいね」
言いながら、軽く握った自分の右手を傷口の上へ持って来る。左手はグレイヴァが逃げないように、彼の腕をしっかり掴んで。
やがて、バルシュの右手から緑の液体がこぼれ、グレイヴァの傷口にしたたる。
「う……。わあああっ!」
激痛に、グレイヴァは目を覚ました。
何かが傷口に触れて痛みを起こしていると知り、グレイヴァは手を動かそうとするが、動かないように固定されている。
突然起きた痛みと腕を引っ込められないという状況でパニックになり、身体ごと逃げようとするが、力が入らない。
「駄目だよ、無茶したら。せっかくこれだけで済んだ傷が、動くとひどくなるよ」
のほほんとした声が耳に入って来たが、痛みでグレイヴァはそれどころではない。
「ほーら、動かない。早く治りたいだろ、きみだって。まぁ、痛いのは私じゃないけれど」
言ってる間に、バルシュの右手から出る緑の液体が止まった。
液体が傷に触れなくなって痛みがややおさまり、グレイヴァの全身にどっと汗が吹き出る。
「さてと……。お次はこれだね」
かすむ意識の中で、ようやくグレイヴァは声のする方を見た。
黒髪の……男だか女だか見分けにくい、声から判断すれば男であろう人物が、自分のそばで何やらしている。
もし自分の目がおかしくなければ、彼は何もないところからカップのような器を出し、何も持っていない手から緑の液体をその中に注いでいる。
「さぁ、少し起きて。味はかなり悪いけど、量はあまり多くないからね」
グレイヴァの半身を起こし、バルシュはカップのふちをグレイヴァの口に付ける。
ちょ、ちょっと待てよ。今、それ、手の中から出さなかった? 何だよ、これ。
グレイヴァが疑問を口にする前に、カップの液体が流し込まれる。
その液体のあまりの苦さに、グレイヴァは吹き出した。
「やると思ったよ。今のは、ほーんの口慣らし。どんな味かわかって、覚悟ができるだろ。ほら、味わうなんて妙なことしないで、一気に飲むんだよ」
こんなとんでもないもの、二度と味わいたくない。
「な……何だよ、これ」
かすれた声だが、どうにか質問の言葉が出た。
「薬だよ。人間は良薬口に苦し、と言うだろ。まぁ、これは薬と言うより解毒剤だけど」
声の調子からして、はぐらかされそうな気がしたが、ちゃんと答えが返ってきた。
「げどく……?」
「そう。毒消し」
どうしてそんなものを飲まされるのか、わからない。
意識は戻ったものの、頭の中も目の前にもかすみがかって、グレイヴァは自分の状況が把握しきれないでいる。
「きみはケガをして、その傷口から身体に毒が入った。だから、その毒を消す。わかった? 放っておくと、体力が減る一方だからね。今度は普通に流し込むから、もう吹き出したりするんじゃないよ」
グレイヴァが返事をする前にまたカップが触れ、とんでもなく苦い液体がまた口の中に広がった。吹き出したい気分だが、それをしてはいけない気がして、おとなしく飲む。
量は多くない、と聞いた気がするが、グレイヴァにすれば大量に飲まされた思いだ。
「よーし、ちゃんと飲んだね。えらい、えらい」
「み……ず……」
あんなひどい味のものを入れられたのだ、早く洗い流したかった。まだ口の中が苦い。
「わかってるよ。ほら」
カップが口に触れ、今度は普通の冷たい水が流し込まれた。苦いものを飲んだ後のせいか、水がとても甘く感じられる。
飲み終えると、静かにまた横にされた。冷たい水を飲んだはずなのに、身体の中がとても熱い。
「口を開けてごらん」
「え……?」
抵抗する気もなく、グレイヴァは少し口を開ける。と、その中に甘い玉のようなものを入れられた。
熱くもなく冷たくもなく、優しい甘さの玉は口に溶けて広がる。
さっきの水も甘かったが、水は水。その前の苦さがひどすぎただけに、その玉の甘さはこわばっていた身体を一気に和らげてくれた。
「ちゃんと飲んだからね。ごほうび」
何だか、子どもに甘い医者みたいだ。
「花の蜜を、キャンディにしたようなものだよ。花によって、ちゃんと味も違うんだ。今のは、私のお気に入り。おいしかっただろ?」
グレイヴァはかすかにうなずき、それから改めて目の前の男性を見た。
やっぱり見覚えがない。助けてくれたようだが、どうしてだろう。
何がどうなって、自分は現在、どういう状況にあるのか。彼は誰なのか。ここはどこなのか。アルテやフィノはどこにいるのか。
聞きたいことはたくさんあるのだが、どれから尋ねていけばいいか、頭の中が整理できない。
「だれ……?」
とりあえず、全てをひっくるめて相手のことを尋ねる。
「私? 私はバルシュだ。きみの名前は? ……話せるかい?」
「グレイ……ヴァ……」
「グレイヴァ、だね?」
かすかにうなずく。
そんなやりとりをしている間にも、身体がさっきより熱くなってきた。意識もまた、遠くなりかけている。
「アルテと…………フィノ…………は……」
バルシュが誰であれ、アルテとフィノがいれば、何とかなる。
無意識の中でそう思ったグレイヴァの口から、自然にその名が出ていた。
「やっぱり、仲間がいるんだね。大丈夫、もう少ししたら来るよ」
グレイヴァが眠りかけているのを見て、バルシュはそう言った。
その言葉の後で、扉をノックする音がする。
「ほらね」
それが呪文のように、グレイヴァは深い眠りに落ちた。





