石の浄化
舞踊石の力が、妖精の意識を取り戻してくれたのだ。まだかなり弱々しいが、意識がないよりはずっといい。
「シノン! よかった、目を覚ましてくれたのね」
再び妖精を包み込み、その手ごと頬ずりするエンヌ。とりあえずは一段落だ。
「シノン、あなたが力を取り戻すために、ぼく達にできることがあれば言ってください」
赤に近いオレンジ色の瞳が、グレイヴァとアルテ、そして魔法使いの肩に乗っている黒ねこの姿を認めた。
「あなたは……ああ、夢の妖精が話していた魔法使い達ね」
「……だから、達じゃないって……」
今度アージュに会ったら、ちゃんと訂正するように言っておこう、と思うグレイヴァだった。
「この石を……きれいにして」
一瞬、誰もがシノンの言葉の意味を理解できなかった。
「きれいにって……どこか汚れてるのか?」
エンヌがずっと握り締めていたので汗がついているかも知れないが、石に目立った汚れというものはない。
「石に何か付いてるのね? 目に見えない何か……よくないものが」
そう言うフィノも、緑の瞳をどんなにこらしてみてもその存在はわからない。
「ええ。魔物の力が、網のように覆ってるの……」
シノンは、魔物の力でこの石から追い出された。戻れば元の身体に戻れるはずなのだが、魔物の力が邪魔をして入れないようになっているのだ。
網目のようになっているので、石からの力はその間を抜けてこうしてシノンの所まで導いてくれたが、シノンが入るには網目は小さい。
だからと言って、その網を取り外す程に、彼女の力は残っていないのだ。
「ぼくにもその力というのは見えませんが……とにかく、浄化すればいいんですね」
「何だ、浄化って」
「汚れを取り除くことです。今の場合、元の状態に戻す、という言い方でもいいですね」
アルテはエンヌから舞踊石を受け取り、それに向かって呪文を唱え始める。邪魔にならないよう、フィノはアルテの肩から下りた。
彼の周りも石の周りにも、これという変化がない。本当に何か起こっているんだろうか、と眺めていたグレイヴァとエンヌ。
だが、突然石を包むようにして、黒いもやのようなものが見えた。
「きゃっ」
黒いもやは蛇のように石に絡み付き、エンヌは思わず目を背けてグレイヴァにしがみつく。
「それが石に張り付いてた魔物の力、か」
「そりゃ、こんなのがくつついてたら、入りたくても入れないわよねぇ」
アルテの、呪文を唱える口調が強くなる。黒いもやは苦しそうにうねっていたが、やがて石から離れ始めた。次第にその形や色が、薄くなってゆく。
もうすぐ消えると思った刹那、再びもやは蛇の姿を取ってアルテに体当たりをかけてきた。
「うわっ」
「アルテ!」
フィノとグレイヴァが同時に叫ぶ。
魔法使いは衝撃で後ろへひっくり返ったが、黒い蛇はそれ以上何もできず、今度こそ宙にその姿を消した。
「アルテッ、大丈夫?」
フィノが一番に飛んで行く。
「ええ……。勢いで飛ばされてしまっただけですよ」
アルテは起き上がり、何でもないと言うようにフィノの頭をなでた。
黒いもやの蛇は、さっき歩いていた時にエンヌが見た本物と大きさはほとんど変わらない。だが、やはり魔物の力、ということか。
その大きさにも関わらず、人間一人を突き飛ばしたのだ。
「最後のあがきで突き飛ばした、というところでしょう。でも、あれで逆に自分の力を使い果たしてしまっているから、もうこの石に魔物の力は残ってませんよ」
「そっか。黒いのがいきなり攻撃した時は、どうなるかと思った。じゃ、これでシノンも石へ戻れるんだな」
アルテの浄化の魔法はうまくいった。魔物の力は消え、石は元に戻ったのだ。
「私……あんなのがついてた石を握り締めてたの……?」
蛇が嫌いだというエンヌは、そちらの方が少しショックだったようだ。
「形として、あんなふうになっただけですよ。本来の姿は、まともな形を持たないものです。そう気にするものでもないですよ」
「とにかく、これでシノンも戻れるんだから、これまで通りに持ってればいいだろ」
アルテに石を返され、まだちょっと複雑な表情をしているエンヌである。
「あの……」
か細い声がした。エンヌの手の中にいるシノンだ。
「シノン、アルテが石を浄化してくれたわ。これで戻れるでしょ?」
「まだ……戻れない」
「え? どうして? 魔法はうまくいったんでしょ?」
エンヌがアルテの方を向く。
「そのつもりですが」
「最後に、水で浄化してほしいの……それで、本当にきれいになるから……」
グレイヴァ達は顔を見合わせた。魔法の浄化だけでは、完全ではなかったのだ。
「水か。川が流れてたよな。川上に向かって歩いて、途中から少し離れたみたいだけど」
「それなら、あたしの鼻で十分ね。水のにおいくらい、すぐにわかるわ」
すぐにフィノが歩き出し、グレイヴァ達は置いて行かれないように慌てて後を追う。
「ねぇ、考えてみたら、フィノは昨日からあの姿よね。もう元に戻してあげた方が……」
「あ……そ、そうだな」
すっかり忘れていた。いつもあの姿なので、グレイヴァもアルテも当たり前のように思っていたのだ。
「とりあえず、川まで行ってからにしようぜ。今はあいつの鼻が頼りだしさ」
人間の姿でも鼻はきくだろうけど、とは思っても、口にはできないグレイヴァだった。
☆☆☆
着いたのは、小さな滝の前だ。アルテの背よりももう少し高い位置から、水が落ちている。
その水も細く、少し大きい水たまりのような滝壺があった。壺と呼べる程に深くはなさそうだが。そこから、細く小さな川が流れている。
「これって……あの川の源、になるのかな」
「ここは山の中腹……にもならないくらいよ。源になるのは、もっと頂上付近じゃない? どっちにしろ、あたし達が昨夜すごした近くに流れていた川は、ここから来てるみたいね」
「ふぅん。とにかく、川のどこだろうと水には違いないよな。エンヌ、舞踊石を貸してくれ。洗うくらいなら、俺にもできるから」
「あ、それなら私が」
「その間、シノンはどうするんだよ。風に飛ばされたりしたら、また捜さなきゃいけなくなるだろ」
グレイヴァ達が「助けに来てくれた人間」ということは、シノンもわかっている。だが、やはり一番顔なじみのエンヌの方が、シノンも落ち着くだろう。
グレイヴァにそう言われ、エンヌは舞踊石を渡した。
「なぁ、アルテ。下にたまってる水より、落ちてくる水にさらした方がいいかな」
「そうですね。見たところ、水はきれいですけれど、わずかでもよどんでいたりしますから、流れる水の方がいいでしょうね」
グレイヴァは落としてしまわないようにチェーンを手首に巻き付け、石を手に持つと滝の方へと手を伸ばす。
「グレイヴァ、気を付けてください。足をすべらせないように」
グレイヴァはできる限り手を伸ばすが、滝から落ちる水のしぶきがかかるだけ。これでは浄化にならない。
「無理しないでください、グレイヴァ。絶対に滝の水でなければならない、ということはないんですよ」
「ん……けどさ……」
「もう。変なところで意地っ張りなんだから」
いっそのこと、水の中へ入って滝の近くへ行った方がいいかな。
そう考えた時、グレイヴァの足下が突然崩れた。
グレイヴァの体重を支えるには、地盤がゆるかったらしい。
足が水の中へすべり落ち、バランスを取ろうとしてグレイヴァは滝壺の縁に腰かけるような形で尻もちをついた。
「もうっ。だから、アルテが無理するなって言ったのに」
「地面が崩れたんだから、仕方ないだろ」
言いながら、グレイヴァは立ち上がった。
「グレイヴァ!」
エンヌの悲鳴のような声で、グレイヴァははっとする。
「手! 血が出てるわ」
言われて見ると、石を持っている右手の甲が赤くにじんでいる。水の中へ落ちた時だろうか、どこかですりむいてしまったらしい。
「いきなり叫ぶから、何かと……。これくらい、どうってことないよ。……あ、やば」
手の傷なんかはどうでもいいが、その血が水ににじんで流れ、持っていた舞踊石についてしまっているのだ。