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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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9/18

地下資料室、鍵と貸出簿

六月に入ると、大学の周りはすっかり梅雨の色に染まった。灰色の空の下、傘を差して歩く学生の列が、キャンパスの並木道を静かに埋めていく。淳はもう、傘立てのどこに自分の傘を置けば忘れにくいかまで覚えるくらいには、この場所に慣れていた。


試料合成の作業にも、以前ほどの緊張はなくなっていた。粉末を量る手つきも、乳鉢ですり潰す力加減も、身体が自然に覚えている。神崎から新しい組成の指示を受けて、淳は一人で炉のプログラムを組めるようになっていた。


「淳くん、最近だいぶ手際よくなってきたね」


「まだ先輩のチェックなしじゃ怖いですけど」


「それでいいよ。慣れすぎて雑になるのが一番怖いから」神崎は乳鉢の中を覗き込みながら言った。「私が一人でできるようになったのは、B4の夏くらいかな。気づいたらできてた、みたいな」


そんなある日の夕方、蓮見が学生居室に顔を出した。


「淳くん、前に、地下の資料室を手伝うって言ってくれたよね」


淳の背筋が、ぴんと伸びた。


「はい」


「学科から正式に来ちゃってさ。古い書類を、電子化するか処分するか、仕分けてくれって。神崎さんたちは測定の予約が詰まってて手が離せないから」蓮見は少し困ったような顔をしていた。「単純作業だけど、頼める?」


「大丈夫です。むしろ、一度入ってみたかったので」


蓮見は意外そうな顔をしてから、笑った。「本当に物好きだなあ」


翌日、蓮見の部屋で鍵を受け取った。真鍮の古い鍵に、色褪せた紙のタグがついている。蓮見は引き出しから、黒いバインダーを出して、机の上に広げた。


「ここに、名前と日付。決まりだから」


罫線だけの頁が、ずっと続いていた。一番下の行は、二年前の日付と、事務職員らしい名前。その上には、その前の年、さらにその前の年。年に一度あるかないかの間隔で、名前は事務の人か、すでに退職した教員のものばかりだった。淳は、最後の行の下に、自分の名前と今日の日付を書き入れた。


「教授も、鍵を持ってるんですよね。教授は、書かないんですか」


「先生は自分の鍵で入るから、書かないよ。行くのかどうかも、僕は知らない」蓮見はバインダーを閉じた。「空調は入ってるけど、湿気が多いから。長居するならマスクを持っていって」


居室に戻って鍵を机に置くと、秋山が手帳から顔を上げた。


「地下、行くのか」


「明日から、仕分け」


「仕分けは、基準を先に決めたほうがいい。箱ごとに迷うと、時間が倍かかる」秋山は手帳のページを一枚破って、淳の前に置いた。「日付が二十年以上前で、誰も参照してなさそうなものは『処分候補』。内容が判別できないもの、個人のものは『要判断』。あとは『電子化』。三分類の表と、箱ごとの記録欄。作っといた」


「作っといたって、いつの間に」


「配属日から、学科の事務に聞いてた。そのうち誰かがやらされるだろうと思って」秋山は肩をすくめた。「予定は、立てておくと安いんだ」


淳は感心して、表を受け取った。この几帳面さに助けられるのは、これで二度目だった。


地下の資料室に続く階段は、工学部棟の端、普段はほとんど誰も通らない廊下の奥にあった。淳が階段を下りると、蛍光灯が一瞬遅れて灯り、ぶんと低い音を立てた。


ドアを開けると、埃と古い紙の匂いが鼻をついた。窓のない部屋には、天井まで届きそうな高さの棚が並び、その隙間に段ボール箱が無造作に積み上げられている。ラベルには「実験データ・平成」「学生論文控え」「装置マニュアル」といった文字が、色褪せたマジックで書かれていた。部屋の隅には、古い実験装置がいくつか、埃をかぶったまま放置されている。今の研究室にあるものより一回り大きく、無骨なデザインだった。


淳は蓮見に渡された仕分けリストと、秋山の表を並べて確認した。「電子化対象」「処分候補」「要判断」の三つに分けて、まずは中身をざっと確認していく作業だった。


神崎に教わった実験ノートの書き方を、この作業にも使うことにした。箱ごとに、棚の位置、中身、状態、日付を書き留める。あとから誰が読んでも、どの箱がどこにあったのか分かるように。除湿機が低く唸る中での、地味な作業だった。それでも書くたびに、この広い部屋が、少しずつ頭の中に地図として描かれていった。


最初の数日は、ただの地味な単純作業だった。段ボールを開けては、古い実験ノートやコピー用紙の束をめくり、日付と内容を軽く確認して仕分ける。ときどき、手書きのグラフや、今では見かけない書式の報告書が出てきて、淳は小さな興味をそそられた。二日目には、古い学生実験のレポートの束が出てきて、その稚拙な考察に思わず苦笑した。自分の書いている実験ノートも、十年後の誰かに、同じように笑われるのかもしれない。


二日目の午後、蓮見が様子を見に来た。缶コーヒーを二本、両手に持っている。


「マスク、してる? 偉い」蓮見は一本を淳に渡して、天井まで届く棚を見上げた。「こんなに広かったんだね。僕も、来るのは二回目なんだ」


「二回目、ですか」


「着任したときに、案内で一度だけ。あとは、この鍵を預かってるだけ」蓮見は缶を開けた。「何か面白いものが出たら教えて」


十分ほどで、蓮見は戻っていった。淳は「はい」と答えながら、缶コーヒーの温かさを、掌でしばらく確かめていた。


その日の記録には、こう書いた。「B列三段、実験データ・平成。状態:紙の劣化あり、電子化対象」。箱ごとに、同じ形式の一行が、増えていく。あとから読み返せば、どの箱が、いつ、どこにあったのか、この一冊だけで分かるはずだった。


その日の休憩中、淳は桐山に、地下での発見を軽く話してみた。


「今日、大昔の測定装置の説明書を見つけたんですよ。今のと全然違う操作パネルで」


「へえ、見てみたいわ、それ」桐山はゲームの手を止めずに答えた。「僕、そういう骨董品的なやつ、意外と好きなんだよな」


「今度、写真撮ってきます」


「頼むわ」


誰かに話せる程度の発見であるうちは、この作業もまだ、ただの日常の延長でしかなかった。


三日目の午後、淳は、ふと足元に目を落とした。


床には、一面に薄く埃が積もっている。その埃の上に、細い筋が一本、通っていた。入口から棚の列の間を縫って、奥へ。人が一人、歩いたくらいの幅だった。淳が作業している手前の棚を素通りして、その筋は、一番奥の棚へ向かっている。


貸出簿の最後の日付は、二年前だった。けれど、筋の上には、ほんのうっすらとしか、新しい埃がかぶっていなかった。二年ぶんの埃なら、もっと積もっているはずだ。せいぜい、数か月。


淳は、配属初日の夕方を思い出していた。階段の暗がりから上がってきた、白衣の袖の灰色。


顔を上げると、埃の筋は、まっすぐに棚の奥の暗がりへ続いていた。


四日目の午後、淳はその筋を辿って、棚の一番奥に立った。他の箱より一回り小さい段ボールが、下段に一つだけ、押し込むように置かれていた。

お読みいただきありがとうございます。

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