「私物」と書かれた箱
段ボールの蓋には、他の箱のような分類名ではなく、ただ「私物」とだけ、小さな殴り書きがあった。
淳は膝をついて、箱を棚の下段から引き出した。他の箱の封には、黄ばんで浮き上がった古いテープが、力なく貼られている。けれど、この箱だけは違っていた。貼られているのは透明なテープで、端がまだ光っている。貼ってから、そう年月は経っていない。
「……最近、誰かが」
配属初日の夕方の階段と、床の埃の筋が、頭の中でひとつの線になりかけた。淳は首を振って、その線を脇に置いた。決めつけるには、まだ材料が足りない。
処分候補にも電子化対象にも当てはまらない。判断に迷う類のものは「要判断」に仕分ける決まりだった。それでも、淳は中身を確認する前に、リストに書き込むことはできないと思った。少し迷ってから、カッターの刃を、テープの継ぎ目に当てた。
透明なテープは、きれいに二つに割れた。
段ボールの中には、大学ノートが数冊と、古い実験装置の写真らしきものが数枚、無造作に重なっていた。一番上のノートを手に取ると、表紙は茶色く焼けたように変色し、端の方が少しめくれている。角を持つと、紙の柔らかさに、時間の重みのようなものを感じた。乾いた薬品の匂いがした。鉛筆の芯の粉が、指の腹に、うっすらとついた。三十年前の誰かの手も、この頁を、こうして押さえていたのだ。
表紙をめくると、几帳面な手書きの文字が並んでいた。青いボールペンと、鉛筆の走り書きが混在している。日付らしき数字を見つけて、淳は思わず目を疑った。今から、およそ三十年前の日付だった。
ページをめくるたび、手書きの片対数グラフ用紙が貼り込まれている。罫線が対数目盛りになった、今では研究室で見かけない専用の用紙だった。鉛筆で丁寧に描かれた曲線の脇に、小さな文字で数式がびっしりと書き込まれている。ところどころに、当時のワープロで打たれたらしい、角ばった字体の貼り紙も挟まっていた。「測定条件・第三回」というような見出しが、機械的な字体で印字されている。ページの右上には、小さな数字で通し番号が振られていた。7の縦棒には、細い横線が一本、斜めに入っている。癖のある字だった。
箱の底には、写真が三枚あった。一枚は、実験台の上に置かれた、細長い石英の管。両端が溶かして封じられていて、中に何かの粉が入っている。もう一枚は、試料合成室らしい部屋の、炉の前。三枚目は、ホワイトボードいっぱいの数式で、右端が切れていた。二枚目の隅に、白衣の背中が二つ、ぼんやりと写り込んでいる。一人は背が高く、もう一人は髪を後ろで束ねていた。顔は分からない。裏には、日付しか書かれていなかった。
最初は、ただの古い実験記録だと思った。誰か学生が残していった、忘れられた私物なのだろう、と。
けれど、あるページで、淳の手が止まった。
見慣れた図だった。四つの点を並べて、外側の二つに矢印で電流、内側の二つに電圧計。ホワイトボードの隅に、神崎が描いたものと同じ形だ。四端子。その脇に、鉛筆で「電流一mA」と書き添えてある。
淳は、息を潜めて、ページを繰った。
温度計は、白金の抵抗温度計だった。「校正済」の印。その次の頁には、冷やしながら測った曲線と、温めながら測った曲線が、二本並べて描かれている。二本の落ち込みの位置は、ほとんど重なっていた。
「……降温と昇温、両方、見てる」
思わず、声に出ていた。神崎に教わったばかりの確認を、この人も、当たり前のようにやっていた。配線を疑い、温度計を疑う順番を、知っている人の記録だった。
そして、グラフの縦軸を見て、淳は息を呑んだ。抵抗値の目盛りは、片対数の縦軸で、四つ分、落ちていた。落ち込みが止まったところには、鉛筆で小さく「測定限界」と書いてある。
その余白に、鉛筆で、小さく、それでいてはっきりと書き込まれた言葉があった。
「室温超伝導」
淳は、その五文字を二度、三度と読み返した。周りの数式や測定データの文脈から見て、それは単なる願望や落書きではなく、実際の測定結果に添えられたコメントのように見えた。
「……嘘だろ」
声に出してから、淳は慌てて周囲を見回した。誰もいない地下の資料室には、蛍光灯の低い唸りだけが響いていた。
ノートを、最初のページに戻す。今度は、もっと注意深く読み進めた。途中から、記述のトーンが少しずつ変わっていくのが分かった。最初は淡々とした実験記録だったものが、後半になるにつれて、書き手の高揚のようなものが、行間からにじみ出てくる。
「抵抗値、ほぼゼロを確認。再現性あり」
「室温付近での転移を疑う。要再測定」
「三回目も同様の結果。これは……」
その先の文字は、途中で途切れていた。ページが破られたわけではない。そこで記述が終わっていて、続くページは、真っ白だった。
焼成の温度を書く欄は、「T₁」「T₂」と記号だけが並んでいた。「数値は別冊 p.3」。別冊、というのは、この箱の中の、別のノートのことだろうか。今日は、そこまで読む時間がなかった。
淳は、しばらくその白いページを見つめていた。心臓が、いつもより少し速く鳴っている。少なくとも、この人は、疑う順番を知っている。それでも、「室温」と書いた。
ノートを箱に戻しかけて、手が止まった。仕分けリストに従うなら、「要判断」として蓮見に渡すのが筋のはずだった。けれど、それをしたら、このノートは、また誰かの手で、箱の中に戻されるだろう。今度は、もっと固く封をされて。
部屋の隅に、古いコピー機が置いてあった。整理のために、蓮見から研究室の部署コードを教わっている。淳はコードを入力して、余白の走り書きが多いページと、グラフのページを選んで、十数枚だけ複写した。機械が紙を吐き出すたび、静かな部屋に、ごとん、ごとんと音が響いた。表示窓の数字が、一つずつ増えていく。
最後の一枚を吐き出す前に、機械が、がたんと音を立てて止まった。紙が詰まったらしい。淳は蓋を開け、指を差し入れて、皺になった紙を、慎重に引き抜いた。
そのとき、階段の上のほうで、ドアの開く音がした。
淳は、息を止めた。足音が、二段、三段と降りてくる。蛍光灯の低い唸りの中で、自分の心臓の音のほうが、大きかった。足音は、階段の中ほどで、止まった。数秒。それから、また、上へ戻っていった。ドアが閉まる。誰かが、間違えて開けただけかもしれない。あるいは、鍵の音に気づいた誰かが、確かめに来ただけかもしれない。
淳は、抜き取った紙の皺を伸ばして、複写の束に重ねた。
複写を鞄の底にしまい、ノートは箱に戻した。割れたテープの継ぎ目を、指で押さえて貼り合わせる。見た目は、ほとんど分からなかった。
蛍光灯の下、淳は棚の奥の暗がりを、もう一度だけ振り返った。
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