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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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室温超伝導、で検索してみる

その夜、下宿に戻った淳は、鞄の底のコピーを、机の上に広げた。


蛍光灯の下で見ると、几帳面な筆跡は、地下で見たときよりも、ずっと生々しかった。淳はコピーを日付の順に並べ直し、頭から読み進めた。


「常識的には、あり得ない現象。だが、再現性がある以上、無視はできない」


「装置の校正は三度確認した。誤差の範囲ではない」


「誰かに相談すべきか。だが、この段階で話せば、どうせ鼻で笑われるだけだろう」


最後の一文に、淳は思わず苦笑した。三十年前の誰かも、自分と同じような迷いを抱えていたらしい。孤独な高揚感、というのだろうか。今この瞬間の自分の気持ちと、紙の向こうの筆跡が、時間を超えて重なるような感覚があった。


日付の間隔も、後半になるにつれて不規則になっていく。数日おきだった記録が、ある時期から急に間が空き、また何日も連続する。何かに追われるように書かれたり、逆に何かを恐れて手を止めたりしているようだった。


日付は、和暦の略号で、月と日が続く。最後の日付の月は、十月。冷却の記録のところだけ、時刻が「午前三時」「午前四時」と並んでいた。この人も、夜に実験をしていたのだ。誰もいない研究室で、たった一人で、炉の前に座って。淳は、その時刻の並びを、下宿の窓の外の暗さと重ねながら、しばらく眺めていた。


誰が書いたのか。表紙には名前がない。最初のページの隅に、小さく日付とイニシャルらしき文字が残っているだけで、かすれて読み取れなかった。


測定データの間には、鉛筆で薄く、化学式らしきものも書き込まれていた。淳の知識では、それが何を指すのか、正確には読み取れない。ただ、自分が扱っているスズ系とは、明らかに違う系統の化合物だった。


「別の材料、なのか……」


「室温付近での転移」という言葉はある。けれど、転移温度そのものを示す数字は、淳が見た範囲には見当たらなかった。「室温付近」が何度を指すのか、確かめる手段はなかった。


余白には、手順の短い走り書きが、いくつか混じっていた。「原料:使用前に前処理」「混合:均一になるまで、根気強く」「冷却:振動厳禁。夜間、静置」「熱処理:二段階」。どれも、実験ノートによくある注意書きの類に見えて、淳は深く考えずに読み流した。


ノートパソコンを開いて、検索窓に「室温超伝導」と打ち込んだ。いくつもの記事がヒットした。過去に、世界中の研究機関が「室温超伝導を実現した」と発表しては、後に測定ミスや再現性の欠如で撤回されてきた歴史が、淳の知らないところに、何件も積み重なっていた。華々しく発表された数か月後に取り下げられた論文。追試に失敗した研究者たちから、厳しい批判を浴びた報告。


「そりゃ、みんな一蹴するわけだ」


何年か前にも、ある物質が「常圧・室温の超伝導体」と大きく報じられたことがあった。世界中の研究室が、数週間のうちに追試をして、抵抗の急落は別の物質の相転移で説明できる、という結論に落ち着いた。撤回、というより、検証されて終わった、と言うほうが正しいのかもしれない。


過去の失敗例を知れば知るほど、あのノートの記述が本物である可能性は、むしろ低く思えてくる。それでも、四端子の図と、降温と昇温で重なった二本の曲線が、頭から離れなかった。測定ミスをしやすい人の記録には、見えなかった。もし、あれが本物なら。もし、三十年前の誰かが、本当に何かを見つけていたのだとしたら。


淳はコピーを引き出しにしまった。


翌朝、研究室に着くと、いつも通りの光景が淳を迎えた。桐山はイヤホンをつけてモニターに向かい、神崎はすでに試料合成室で何かの準備をしている。何も変わっていないはずの光景が、昨夜のあとでは、ほんの少しだけ違って見えた。


「淳、地下の作業、順調?」大久保が声をかけてきた。


「あ、はい。地味に進めてます」


「なんか掘り出し物あった?」


「……古い装置のマニュアルとか、レポートとか、そんなのばっかりです」


嘘ではなかった。ただ、一番大事なことだけを、淳はそっと言葉から抜き取っていた。その感覚に、淳は自分でも驚くくらい、小さなスリルを覚えていた。誰かに隠し事をするのは、決して得意な方ではなかったはずなのに。


その日の作業時間、淳は仕分けの合間を縫って、あの箱をもう一度開けた。別冊の頁を探そうとしたが、蓮見が仕分けの進み具合を見に来て、箱を閉めるしかなかった。代わりに、箱の底をさらうと、学生名簿らしき紙の断片が、一枚だけ見つかった。紙の上端に「……研究室 学生名簿」とだけ読める。研究室の名前は、水濡れの中に消えていた。ほとんどの文字がにじんでいて、読み取れる名前は数えるほどしかない。「沢村」。「高槻」。それだけだった。どちらも、今の研究室の誰とも一致しない、聞き覚えのない名前だった。


二人の名前で、何か辿れないか。淳は、地下の別の箱、「学生論文控え」の束を、年度の順に並べ直してみた。日付の若い順に、卒論と修論が、細い背表紙で並んでいる。沢村の名前も、高槻の名前も、どの背表紙にもなかった。並べていくうちに、淳は、ある年度のあたりで手を止めた。背表紙の並びが、そこだけ、飛んでいる。数年分の論文控えが、まとめて抜けているようだった。


紛失か、処分か。三十年も経てば、そういうことも、あるかもしれない。淳は箱を元に戻した。飛んだ年度は、ノートの和暦の日付と、同じ頃らしい。ただ、抜けた年の学生が誰なのか、どんな題目だったのかは、この箱の中からは分からなかった。


その夜、淳は、ノートパソコンで「沢村 帝都科学大 超伝導」と検索してみた。同じ姓の研究者は何人もいたが、この大学の、しかも三十年前の学生に辿り着く手がかりは、どこにもなかった。研究室のホームページにも、歴史の欄はなかった。


机に戻って、ノートの新しいページに、三つの行を書き並べた。


一、当時の学生が書いた。

二、当時の教員が書いた。

三、——


三行目で、ペンが止まった。「三十年前」と「御堂の年齢」が、頭の中で、勝手に隣り合った。御堂が言っていた、「昔のことを知っている人間は、もうほとんど残っていない」という一言。あの人は、この研究室に三十年以上いる。当時すでにここにいたとしても、おかしくない。


けれど、それを三行目に書くことは、しなかった。書いてしまったら、確かめもしないうちに、それが答えになってしまう気がした。


淳は、三行目を空白のまま残した。確かめる手段は、まだ一つも思いつかなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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