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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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要判断、たった一行

資料室の整理作業は、それから一週間ほどで一段落した。処分候補と電子化対象に仕分けた箱をまとめ、淳は仕分けリストを蓮見に提出した。リストの「要判断」の欄には、たった一行だけが書いてある。「私物・古い実験ノート数冊(下段奥)」。


「お疲れさま、思ったより早く終わったね」蓮見はリストに目を通しながら言った。「何か気になるもの、あった?」


一瞬、淳の心臓が跳ねた。


「……古い装置の写真とか、当時の学生さんの実験ノートとか、色々ありました。時代を感じるものばかりで、面白かったです」


リストには、書いた。ただ、中身のことは、言わなかった。箱の行き先を、淳は、聞けなかった。


「そう。要判断の私物、か」蓮見は「下段奥」の行を指で追った。「これは、僕から御堂先生に確認しておくよ。先生の関係のものかもしれないし。箱は、僕が預かるね」


「……お願いします」


「うん。ありがとう、助かったよ。そうだ、お礼というのも変だけど」蓮見は、引き出しから、一枚の紙を出した。「卒論のために、少しだけ自由に使える発注枠があるんだ。年に三万円まで。原料を少量、試しに買ってみたいときに、用途を一行書けば、事務の田村さんが発注してくれる。卒論の検討のためなら、なんでもいい」


「ありがとうございます」


淳は、紙を受け取りながら、その一枚が、やけに軽く感じられた。


蓮見はそれ以上、深く追及することもなく、リストを机の上に置いた。淳は密かに胸を撫で下ろした。同時に、自分がこんなに落ち着いて、大事なことを黙っていられることに、少しだけ驚いてもいた。悪いことをしている、という感覚はまだ薄い。それよりも、誰も知らないことを自分だけが知っているという事実のほうが、不思議と胸を高鳴らせていた。


その翌日、淳が地下に降りてみると、棚の下段の奥は、がらんと空いていた。埃の筋の終わりに、四角い跡だけが残っている。箱は、もう、蓮見の手で運ばれたあとだった。別冊の頁を、見ることはできない。淳は自分の鞄の中の、十数枚のコピーを、服の上から押さえた。もう少し、多く取っておけばよかった、と指先が後悔していた。


その夜、下宿の机で、淳はコピーの余白に書かれた化学式を、もう一度見つめていた。


あのノートの筆者は、試料をどんな配合で作ったのか。神崎に教わった通りなら、配合は原子の数の比で決まり、量る重さは原料ごとに変わる。記号が分かれば、重さに直せるはずだった。


淳は白紙に書き写しかけて、手を止めた。ノートに「何々の化合物」と書けば、自分のノートも、誰かに読まれるものになる。淳は元素記号を書かず、○、△、□、◇の四つの印に置き換えた。ノートの式は、四つの印の比だった。○が一。△が二。□がまた二。◇が、〇・〇三。


「……最後だけ、桁が違う」


◇は、ほんのひとつまみだった。全体の三十分の一にも満たない。少量の元素を加える、ドーピングという考え方は、授業で習った。電子の数を、わずかに変えるために、ほんの少しだけ、別の元素を混ぜる。◇は、それだったのかもしれない。だとすれば、量のわずかなずれが、結果を大きく変えるはずだ。淳は原子量の表を開いて、印ごとに一グラムぶんの配合を計算した。表計算ソフトに数字を打ち込み、目標量を出し、許容の幅を、正規のテーマの配合表と同じ形式に整える。出てきた数字は、○が〇・三一二グラム、△が〇・四〇一グラム、□が〇・二七四グラム、◇が〇・〇一四グラム。合計は、一グラムをわずかに超えた。三つの大きな原料で丸めの差を配り直し、許容は前後〇・〇〇三グラム。◇だけは、前後〇・〇〇一グラムに決めた。四月に神崎に叱られた、あの0.482という数字の感覚が、指先に戻ってきた。


出てきた数字を、研究室の原料の在庫リストと突き合わせる。○は棚にある。△も、□もある。正規のテーマのスズ系が、同じ原料を使っているからだ。


もっとも、コピーの中には、焼成の温度が書かれていない。「T₁」「T₂」の記号だけだ。数値のある別冊は、もう、手の届かない場所にある。試して、当たりをつけるしかなかった。


淳は、この配合の系について、論文を検索してみた。関連しそうな論文は、いくつか見つかった。けれど、四つの元素をこの比率で組み合わせた化合物を報告したものは、一本もなかった。三十年前に見つかっていたのなら、どこかに論文が残っていて当然のはずだった。書かれなかったのか、書かれて消えたのか。


けれど、◇だけが、リストのどこにもなかった。


「四つ目だけ、うちにない」


その元素は、名前こそ聞いたことがあるが、この研究室では、誰も使っていない。過去の薬品台帳を共有サーバーで検索してみると、ここ十年、その名前で注文された記録は一件もなかった。三つが棚にあり、一つだけが、今のここにはない。けれど、三十年前の誰かは、この研究室で、その四つ目を確かに手にしていた。


「だとしたら」


ふいに、胸が、どきりとした。三つは、今ある道具で揃う。残り一つをどこかから注文すれば、ノートの配合の試料が、作れてしまう。作れるということは、確かめられる、ということでもある。


淳は、卒論のために蓮見から与えられている、少量原料の自由発注枠のことを思い出した。年間三万円までなら、用途を一行書くだけで、事務が発注してくれる。四つ目の価格を調べると、ごく少量なら、その枠の中に収まる金額だった。


画面を閉じて、淳は深く息を吐いた。まだ、注文はしない。その前に、やるべきことがある。


あの記述が、本当に「あり得ない」のかどうか。それを教えてくれる人が、この研究室に一人だけいる。


淳は、引き出しの奥の、鍵のかかる小さな箱に、コピーと計算用紙をしまった。通帳としばらく着けていなかった腕時計を入れるためだけに使っていた箱だった。鍵をかけながら、ふと自分のしていることの奇妙さに苦笑する。日中は、正規のテーマの試料を、真面目に作る。夜は、三十年前の誰かの見た夢の、続きを覗き見る。けれど、どちらの自分も、同じくらい、面白かった。


——神崎さんに、見せる。


そう決めたのは、七月に入る少し前のことだった。決めたのに、実際に口に出せるまでには、そのあと二週間かかった。

お読みいただきありがとうございます。

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