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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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神崎に見せる、一蹴される

そう決めてから、二週間が過ぎていた。


その間、淳は毎晩のようにコピーを読み返しては、そのたびに同じ場所で足を止めていた。神崎に見せれば、きっと一言で切り捨てられる。分かっていながら、口に出す一歩が、思っていた以上に重かった。


一度は、大久保に見せかけたこともあった。休憩中、コーヒーを片手にぼんやりしている大久保を見て、この人になら気軽に話せるかもしれない、と思ったのだ。


「大久保さん、ちょっと変な話していいですか」


「ん、何」


淳は鞄に手をかけたが、そこで躊躇した。もし大久保がこれを面白がって他の人にも話してしまったら。あるいは逆に、真剣に受け止めすぎて、蓮見や神崎に相談してしまったら。まだ自分の中で何も整理がついていないうちに、この話が独り歩きしてしまうことが、なぜか怖かった。


「……いや、大したことじゃないです。すみません」


「なんだよ、気になるじゃん」大久保は不満げな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


結局、話せる相手は神崎しかいなかった。一番近くで淳の実験を見てきた人だ。的確な指摘をくれる代わりに、いい加減な話には決して同調しない。だからこそ、彼女の反応が、一番信頼できる判断材料になるはずだった。


七月に入り、梅雨明けが近いというニュースが流れ始めた頃、淳はようやく、口を開く機会を見つけた。ある日の午後、測定の合間で神崎が珍しく手持ち無沙汰にしている時間があった。今しかない、と淳は思った。


「先輩、ちょっと見てほしいものがあるんですけど」


「何、改まって」神崎はパソコンから顔を上げた。


淳は鞄から、折りたたんだコピー用紙を取り出した。グラフと走り書きの頁だけだ。配合の頁は、鞄の底に残した。理由は、自分でもはっきりしなかった。手が、わずかに震えているのが分かった。


「これ、資料室の整理してたときに見つけたノートのコピーなんですけど」


神崎は紙を受け取り、目を通し始めた。最初は興味本位という程度の軽い表情だったが、ページを読み進めるうちに、その眉間にわずかな皺が寄っていった。


「これ……」


「三十年くらい前のものだと思います。誰が書いたかは分からないんですけど」


神崎はしばらく無言で紙を見つめたあと、四端子の図のところで、指を止めた。


「……四端子。降温と昇温の両方も、見てる。ちゃんとした人の記録だね」


それから、ふっと短く息を吐いた。


「室温超伝導、ね」


その声のトーンに、淳は身構えた。


「先輩、これ、あり得ることなんですか」


「普通に考えれば、あり得ない」神崎はきっぱりと言った。「普通の金属の超伝導を説明する今の理論だと、超伝導が起きるのは電子同士がペアを組んで、格子振動を介して結びつくことで、抵抗なく動けるようになる現象。この結びつきは熱で簡単に壊れちゃうから、普通は極低温じゃないと維持できない」


「格子振動、っていうのは」


「原子が規則正しく並んだ結晶の中で、原子そのものが小刻みに揺れてる状態のこと。電子が一つ通ると、その揺れがきっかけになって、もう一つの電子が引き寄せられる。バランスボールの上を人が歩くと、へこんだ跡に別の人が転がり込んでくるようなイメージ」神崎はそう言うと、少し得意げに続けた。「その『ペア』になった電子は、結晶の格子とぶつからずにすり抜けられる。それが抵抗ゼロの正体」


「なるほど……」


「で、この仕組みは、温度が高いとすぐに揺れが激しくなりすぎて、ペアが壊れちゃう。だから普通は、マイナス二百度とか、そういう極低温じゃないと成り立たない」


「でも、銅酸化物系とか、高温超伝導体もありますよね。あれも、昔は『あり得ない』って言われてたって聞きました」


「そうだね、あれは常識を覆した発見ではあった。電子がペアになるところまでは分かってるけど、何がペアを結びつけてるのかは、今でも決着してないの」神崎は頷きながらも、表情は変えなかった。「でも、あれだって『高温』っていっても、絶対零度から見た『高温』であって、室温とはまだ何百度も差がある。そこからさらに室温まで持ってくるのは、次元の違う話」


淳は反論の言葉を探したが、うまく見つからなかった。神崎の説明は、いつも通り的確で、隙がなかった。


「じゃあ、理論的には絶対に無理、ってことですか」


「絶対とは言わないよ、物理に絶対はないから」神崎は少し表情を緩めた。「理論的には、電子同士がもっと強く結びつく仕組みが見つかれば、室温での超伝導も原理上は否定できない、って考えてる研究者もいる。高圧下でなら室温に近い温度で超伝導が観測された、っていう報告も過去にあるし」


「高圧下、ですか」


「うん。ものすごい圧力をかけて、原子同士を無理やり近づける。でも、そんな圧力、普通の実験室じゃまず再現できない。ダイヤモンドで挟んで、針の先みたいな小さな面積に集中させて、やっと届くレベル」神崎は肩をすくめた。「このノートの測定条件を見る限り、そんな特殊な高圧実験をしてたようには見えない。ごく普通の炉と、常圧の測定装置を使ってる」


「じゃあ、やっぱり測定ミスってことですか」


「可能性としては、一番高いと思う。配線の接触不良とか、温度計のキャリブレーションのズレとか、色々な理由で『抵抗ゼロっぽく見える』ことはある。私も駆け出しの頃、何度かそういう誤検出をやらかした」神崎はそう言って、苦笑いを浮かべた。「でも——」


「でも?」


「三回も再現性を確認してる、って書いてあるのが、ちょっと引っかかる。単純な配線ミスなら、毎回同じ間違え方をするとは限らないから」神崎はそこで言葉を切った。「それに、配線と温度計をちゃんと疑う人ほど、疑い切れなかったところの見落としは、大きいことがある。何を見落としたのか、そっちが気になる」「まあ、それだけで『本物』と決めつけるには、材料が全然足りないけどね」


「それに」神崎はコピー用紙をもう一度見つめながら続けた。「このデータだけじゃ、何とも言えない。測定条件も詳しくは書いてないし、試料の作り方も分からない。これだけで『室温超伝導を発見した』って結論づけるのは、さすがに無理があるよ」


「そう、ですよね……」


淳の声は、思っていたより落胆の色が濃く出てしまった。それに気づいたのか、神崎はふと表情を和らげた。


「まあ、面白いとは思うよ。誰かがこれだけ真剣に、こういう現象を追いかけてたっていうのは」神崎はコピー用紙を淳に返しながら言った。「昔の学生の夢の跡、くらいに思っておけばいいんじゃない」


淳はコピーを受け取りながら、それでも聞かずにはいられなかった。


「『室温付近』って、何度のことなんでしょう。数字は、どこにも書いてなくて」


「書いてないなら、何度でも書いたことにできる」神崎は肩をすくめた。「数字のない結果は、結果じゃなくて、感想。研究者の世界ではね」


感想。その一語が、コピーを持つ淳の指に、静かに重く残った。


「ところで、それ、どこで見つけたの」


「地下の資料室です。整理のときに」


「地下の箱は、蓮見さんの管轄でしょ。報告は」


「リストには、『私物・古い実験ノート』って、書きました。箱は、蓮見先生が、預かってくださって」


「なら、いい」神崎は頷いた。「勝手に持ち出したりしてないなら」


淳は、鞄の底のコピーを、一瞬だけ、意識した。持ち出したのは、複写だ。原本は、返してある。それでも、「勝手に」の三文字は、簡単には抜けない棘のように、胸に残った。

お読みいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
理系研究室の雰囲気がそこはかと感じられて過去の思い出と重なりました。 今後、物語がどのように動いていくのか楽しみです。
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