神崎に見せる、一蹴される
そう決めてから、二週間が過ぎていた。
その間、淳は毎晩のようにコピーを読み返しては、そのたびに同じ場所で足を止めていた。神崎に見せれば、きっと一言で切り捨てられる。分かっていながら、口に出す一歩が、思っていた以上に重かった。
一度は、大久保に見せかけたこともあった。休憩中、コーヒーを片手にぼんやりしている大久保を見て、この人になら気軽に話せるかもしれない、と思ったのだ。
「大久保さん、ちょっと変な話していいですか」
「ん、何」
淳は鞄に手をかけたが、そこで躊躇した。もし大久保がこれを面白がって他の人にも話してしまったら。あるいは逆に、真剣に受け止めすぎて、蓮見や神崎に相談してしまったら。まだ自分の中で何も整理がついていないうちに、この話が独り歩きしてしまうことが、なぜか怖かった。
「……いや、大したことじゃないです。すみません」
「なんだよ、気になるじゃん」大久保は不満げな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
結局、話せる相手は神崎しかいなかった。一番近くで淳の実験を見てきた人だ。的確な指摘をくれる代わりに、いい加減な話には決して同調しない。だからこそ、彼女の反応が、一番信頼できる判断材料になるはずだった。
七月に入り、梅雨明けが近いというニュースが流れ始めた頃、淳はようやく、口を開く機会を見つけた。ある日の午後、測定の合間で神崎が珍しく手持ち無沙汰にしている時間があった。今しかない、と淳は思った。
「先輩、ちょっと見てほしいものがあるんですけど」
「何、改まって」神崎はパソコンから顔を上げた。
淳は鞄から、折りたたんだコピー用紙を取り出した。グラフと走り書きの頁だけだ。配合の頁は、鞄の底に残した。理由は、自分でもはっきりしなかった。手が、わずかに震えているのが分かった。
「これ、資料室の整理してたときに見つけたノートのコピーなんですけど」
神崎は紙を受け取り、目を通し始めた。最初は興味本位という程度の軽い表情だったが、ページを読み進めるうちに、その眉間にわずかな皺が寄っていった。
「これ……」
「三十年くらい前のものだと思います。誰が書いたかは分からないんですけど」
神崎はしばらく無言で紙を見つめたあと、四端子の図のところで、指を止めた。
「……四端子。降温と昇温の両方も、見てる。ちゃんとした人の記録だね」
それから、ふっと短く息を吐いた。
「室温超伝導、ね」
その声のトーンに、淳は身構えた。
「先輩、これ、あり得ることなんですか」
「普通に考えれば、あり得ない」神崎はきっぱりと言った。「普通の金属の超伝導を説明する今の理論だと、超伝導が起きるのは電子同士がペアを組んで、格子振動を介して結びつくことで、抵抗なく動けるようになる現象。この結びつきは熱で簡単に壊れちゃうから、普通は極低温じゃないと維持できない」
「格子振動、っていうのは」
「原子が規則正しく並んだ結晶の中で、原子そのものが小刻みに揺れてる状態のこと。電子が一つ通ると、その揺れがきっかけになって、もう一つの電子が引き寄せられる。バランスボールの上を人が歩くと、へこんだ跡に別の人が転がり込んでくるようなイメージ」神崎はそう言うと、少し得意げに続けた。「その『ペア』になった電子は、結晶の格子とぶつからずにすり抜けられる。それが抵抗ゼロの正体」
「なるほど……」
「で、この仕組みは、温度が高いとすぐに揺れが激しくなりすぎて、ペアが壊れちゃう。だから普通は、マイナス二百度とか、そういう極低温じゃないと成り立たない」
「でも、銅酸化物系とか、高温超伝導体もありますよね。あれも、昔は『あり得ない』って言われてたって聞きました」
「そうだね、あれは常識を覆した発見ではあった。電子がペアになるところまでは分かってるけど、何がペアを結びつけてるのかは、今でも決着してないの」神崎は頷きながらも、表情は変えなかった。「でも、あれだって『高温』っていっても、絶対零度から見た『高温』であって、室温とはまだ何百度も差がある。そこからさらに室温まで持ってくるのは、次元の違う話」
淳は反論の言葉を探したが、うまく見つからなかった。神崎の説明は、いつも通り的確で、隙がなかった。
「じゃあ、理論的には絶対に無理、ってことですか」
「絶対とは言わないよ、物理に絶対はないから」神崎は少し表情を緩めた。「理論的には、電子同士がもっと強く結びつく仕組みが見つかれば、室温での超伝導も原理上は否定できない、って考えてる研究者もいる。高圧下でなら室温に近い温度で超伝導が観測された、っていう報告も過去にあるし」
「高圧下、ですか」
「うん。ものすごい圧力をかけて、原子同士を無理やり近づける。でも、そんな圧力、普通の実験室じゃまず再現できない。ダイヤモンドで挟んで、針の先みたいな小さな面積に集中させて、やっと届くレベル」神崎は肩をすくめた。「このノートの測定条件を見る限り、そんな特殊な高圧実験をしてたようには見えない。ごく普通の炉と、常圧の測定装置を使ってる」
「じゃあ、やっぱり測定ミスってことですか」
「可能性としては、一番高いと思う。配線の接触不良とか、温度計のキャリブレーションのズレとか、色々な理由で『抵抗ゼロっぽく見える』ことはある。私も駆け出しの頃、何度かそういう誤検出をやらかした」神崎はそう言って、苦笑いを浮かべた。「でも——」
「でも?」
「三回も再現性を確認してる、って書いてあるのが、ちょっと引っかかる。単純な配線ミスなら、毎回同じ間違え方をするとは限らないから」神崎はそこで言葉を切った。「それに、配線と温度計をちゃんと疑う人ほど、疑い切れなかったところの見落としは、大きいことがある。何を見落としたのか、そっちが気になる」「まあ、それだけで『本物』と決めつけるには、材料が全然足りないけどね」
「それに」神崎はコピー用紙をもう一度見つめながら続けた。「このデータだけじゃ、何とも言えない。測定条件も詳しくは書いてないし、試料の作り方も分からない。これだけで『室温超伝導を発見した』って結論づけるのは、さすがに無理があるよ」
「そう、ですよね……」
淳の声は、思っていたより落胆の色が濃く出てしまった。それに気づいたのか、神崎はふと表情を和らげた。
「まあ、面白いとは思うよ。誰かがこれだけ真剣に、こういう現象を追いかけてたっていうのは」神崎はコピー用紙を淳に返しながら言った。「昔の学生の夢の跡、くらいに思っておけばいいんじゃない」
淳はコピーを受け取りながら、それでも聞かずにはいられなかった。
「『室温付近』って、何度のことなんでしょう。数字は、どこにも書いてなくて」
「書いてないなら、何度でも書いたことにできる」神崎は肩をすくめた。「数字のない結果は、結果じゃなくて、感想。研究者の世界ではね」
感想。その一語が、コピーを持つ淳の指に、静かに重く残った。
「ところで、それ、どこで見つけたの」
「地下の資料室です。整理のときに」
「地下の箱は、蓮見さんの管轄でしょ。報告は」
「リストには、『私物・古い実験ノート』って、書きました。箱は、蓮見先生が、預かってくださって」
「なら、いい」神崎は頷いた。「勝手に持ち出したりしてないなら」
淳は、鞄の底のコピーを、一瞬だけ、意識した。持ち出したのは、複写だ。原本は、返してある。それでも、「勝手に」の三文字は、簡単には抜けない棘のように、胸に残った。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




