神崎に相談、蓮見の古い忠告
神崎に一蹴されたことを、淳は素直には飲み込めなかった。神崎の説明には筋が通っている。物理的な理屈としては、納得できる部分も多い。それでも、あの几帳面な筆跡に宿っていた確信のようなものが、簡単には拭えなかった。
「先輩は、こういう変な話、今までに聞いたことあります?」
「変な話っていうか——」神崎は少し考え込むような顔をしてから、ふと声を落とした。「そういえば、前に一度だけ、蓮見先生から言われたことがあるな」
「蓮見先生から?」
「うん。去年、私がこの研究室に来たばかりの頃、たまたま研究室の歴史の話になったときに。『このテーマだけは、あまり深追いしない方がいいよ』って、やんわり釘を刺された」神崎は記憶をたどるように、視線を宙に泳がせた。「そのとき『このテーマ』が何を指してるのか、はっきりとは言われなかったんだけど。今思えば、こういう話だったのかもね」
淳の胸の中で、何かがかちりと音を立てた。
「理由は、聞かなかったんですか」
「聞いたよ。でも『いや、なんとなく』って濁されただけ」神崎は肩をすくめた。「先生も、はっきりした理由を持ってるわけじゃないのかもしれない。誰かから聞いた話を、そのまま私に伝えてるだけ、みたいな感じだった」
誰かから聞いた話。その「誰か」が誰なのか、淳には見当がついた。少なくとも、蓮見よりもずっと長くこの研究室にいる人間——御堂しか、思い浮かばなかった。
「先輩は、それ以上聞かなかったんですか」
「聞かなかった。別に、私の研究に関係あることでもなかったし」神崎はそう言うと、パソコンの画面に視線を戻した。「淳くんも、あんまり気にしすぎない方がいいと思うよ。面白い話ではあるけど、正規のテーマの方が大事でしょ」
「そうですね……」
淳は素直に頷いたが、頭の中では、今聞いたばかりの話が、何度も反響していた。深追いするな、という言葉。それを伝えた先生。その先には、御堂がいる。BBQで見た、あの一瞬の表情が、また鮮明に蘇ってきた。
その週は、中間報告の準備で研究室全体が慌ただしくなった。淳も例外ではなく、これまでのデータをまとめ、スライドを作る作業に追われた。
「淳くんのデータ、思ったよりまとまってるじゃん」蓮見がスライドをチェックしながら言った。「臨界電流のグラフ、これでいこう」
「ありがとうございます」
「発表練習、来週やろうか。人前で話すの、慣れとかないとね」
「緊張しそうです」
発表練習の日、神崎は自分の作業の合間を縫って、丁寧に付き合ってくれた。
「声、もう少し落ち着いて。早口になりすぎ」
「すみません、緊張すると早くなっちゃって」
「深呼吸してから話し始めるといいよ。私も未だにやってる」神崎はそう言って、実際に一度、大きく息を吸って見せた。「あと、グラフの縦軸と横軸、口で説明する前に指させばいいから。慣れてない人は、言葉だけで説明しようとして、余計ぐちゃぐちゃになる」
何度か通しで練習するうちに、淳の話し方は少しずつ滑らかになっていった。
「うん、だいぶよくなった」神崎は満足げに頷いた。「本番も、この調子でいけば大丈夫」
中間報告当日、狭い会議室に研究室のメンバーが集まった。淳の発表順は三番目で、蓮見、大久保に続いての出番だった。緊張で声が上ずりそうになりながらも、神崎に教わった通り、深呼吸をしてからスライドを進めた。
質疑応答では、御堂からいくつか鋭い質問が飛んだ。原料の保管と秤量をどう管理しているか、測定誤差の要因をどう見積もっているか。どれも、これまで神崎に叩き込まれてきたことばかりで、淳は一つ一つ、落ち着いて答えることができた。
「データの取り方は堅実だ。この調子で続けろ」
御堂の短いコメントに、淳は素直に嬉しくなった。正規のテーマでは、確かに前に進んでいる。その実感だけは、確かなものだった。質疑の間、御堂の視線がいつも通り鋭く、それでいてどこか興味深そうにこちらを見ていたことに、淳は気づいていた。発表を終えて席に戻る途中、目が合った。御堂の視線が、ほんの少しだけ長く、淳の顔に留まった気がした。蓮見は、あの箱のことを、もう先生に話しただろうか。聞くことはできなかった。少なくとも今この場では、御堂は普段通りの教授でしかなかった。
発表を終えて席に戻ると、大久保が親指を立ててみせた。
「淳、めちゃくちゃ堂々としてたな。俺の初めての中間報告なんて、原稿見ながらでもガタガタだったのに」
「そんなに緊張してるように見えました?」
「全然。むしろ落ち着きすぎててちょっと怖かったわ」大久保は笑いながら言った。「まあ、それだけ準備したってことだろうけど」
淳はその言葉に、内心複雑な気分になった。落ち着いて見えたのは、練習の成果というより、頭の中の半分が、ずっと別のことに占められていたからかもしれない。緊張する余裕すら、どこかに紛れてしまっていた。
スマートフォンが震え、母からのメッセージが届いた。「お盆はいつから帰れそう?」という短い一文に、淳はしばらく考え込んだ。中間報告が終われば、少し余裕ができるはずだ。お盆の週には、一度実家に帰ろうと思っていた。
「今のところ、お盆の週には帰れると思う」
返信を打ちながら、淳はふと、実家に帰っている間もこのノートのことを考え続けるのだろうか、と想像した。商店街の匂いや、田んぼを渡る風の感触の中で、三十年前の誰かの見た夢のことを思い出す自分。想像しただけで、なんだか奇妙な気分になった。
エレベーターを待つ間、桐山がふと思い出したように言った。
「そういえば、今度うちの実家の方にも古い蔵があってさ。祖父さんの代の道具とか、いろいろ出てくるんだよな。淳の地下室の話聞いて、なんか思い出したわ」
「へえ、そういうのあるんですね」
「うん。まあ、うちのはただのガラクタばっかりだけど」桐山は笑った。「淳んとこの地下室は、もうちょっとロマンあったろ」
その一言に、淳は思わずどきりとした。桐山に他意はないはずだった。ただの世間話のつもりで言っているのが、その口調から伝わってくる。
「……まあ、古い装置のマニュアルとか、ちょっと面白かったです」
「だろうな。僕も一回見てみたかったわ、その資料室」
エレベーターの扉が開き、二人はそれぞれの方向へ歩き出した。淳は振り返らずに、そのまま正面玄関へと向かった。
下宿までの道で、淳が思い返したのは、蓮見の忠告だけだった。誰かがそれを恐れて、後輩に「深追いするな」と言い残している。まだ誰にも本当のことは話せない。それでも、もう少しだけ、自分の手で追いかけてみたい。夏の夜風が湿った熱気を運び、蝉の声が街灯の下で途切れることなく響いていた。
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