梅雨明けの蝉と研究室の温度差
梅雨が明け、蝉の声が一気に大学構内を覆い尽くした。七月も半ばに差し掛かり、研究室のエアコンは、ほぼ休みなく稼働している。
神崎に一蹴されても、淳の頭の中の問いは消えなかった。むしろ、あの「感想」という言葉のおかげで、問いの形がはっきりした気がした。数字のない結果は、結果ではない。だとしたら、この研究室の人たちは、ああいう話を、それぞれどう受け止めるのだろう。淳は、核心には触れないまま、軽い調子で聞いて回ってみることにした。
「常温超伝導? そんなのあるわけないだろ」
休憩中、桐山は画面から目も離さずに即答した。
「なんでそう言い切れるんですか」
「なんでって、本当にあったら、とっくにノーベル賞取って、世界中で大騒ぎになってるだろ」桐山はコントローラーを操作しながら続けた。「そういうオカルトっぽい話、たまにネットで見るけどさ。大体は、再現できませんでしたってオチ」
「桐山さんも、そういうネットの話、結構見るんですか」
「見る見る。暇なときに漁ってると、結構出てくるんだよな、その手の話」桐山はそこで初めて、ちらりとこちらを向いた。「なに、淳、興味あんの? ゲームの連中に、聞いてみようか。材料系の人もいるし」
「あ、いえ、そこまでは」
「冗談冗談。まあ、暇なとき、話のタネにでも出してみるわ」
桐山はそう言って、すぐにまた画面に戻った。淳は「大丈夫です」ともう一度言ったけれど、桐山の耳に届いたかどうかは分からなかった。
大久保に聞いたときは、反応が少し違った。
「常温超伝導ねぇ……俺の専門分野じゃないから詳しくは分からんけど」大久保は椅子に座り直しながら、少し考え込む顔をした。「あったらすごいよな。でも、そういう話って、大体、最初は盛り上がって、あとで『やっぱり違いました』ってなる」
「大久保さんも、そう思うんですね」
「思う思う。うちの研究室でそんなの出てきたら、逆に怖いくらいだわ」大久保は笑ってから、指を一本立てた。「ただ、本当に誰かが見つけたっていうなら、話は簡単だよ。同じ条件で、もう一回作る。同じ結果が出なきゃ、それまで。同じ結果が、何回作っても出たら、そのときは認めるしかない。それが、一番説得力あるやり方だろ」
「作り直す、ですか」
「作ってみないと、始まらないんだよ、結局」大久保は「どっこいしょ」と立ち上がった。「俺が焼結条件を振るなら、まず、温度と冷やし方から振るかな。……なんて、ただの雑談だぞ」
秋山に聞いたときは、また少し違う反応が返ってきた。
「常温超伝導? なんでいきなり、そんな話」秋山は手帳から目を上げて、怪訝そうな顔をした。「それ、卒論に関係あるの?」
「いや、関係はないけど」
「だったら、その話に使う時間は、正規のテーマから引かれる。研究って、時間の配分だからさ」秋山は、手帳の余白に、何かの線を引いた。「ロマンがあるのは分かるよ。でも、俺は、目の前の締め切りが先」
「秋山らしい答えだね、それ」
「褒め言葉として受け取っとく」
蓮見にも、それとなく聞いてみたことがあった。
「先生は、室温超伝導について、どう思われますか」
「専門家としては、懐疑的にならざるを得ないかな」蓮見は、少し考えて、笑った。「でも、個人的には、ロマンのある話だとは思うよ。……ただ、うちの研究室では、あんまり口にしないほうがいい話題かもね」
「どうしてですか」
「どうして、かな」蓮見は、湯呑みを持ち上げた。「なんとなく、そういう空気があるんだ。理由は、僕も、よく分からないんだけど」
何人かに聞いて分かったのは、同じ話でも、人によって、まるで別の顔になるということだった。桐山は「ネットの話」として。大久保は「作ればいい実験」として。秋山は「時間の使い道」として。神崎だけが、その全部の後ろで、データを見ていた。
その日の午後、淳は試料合成室で、神崎の隣に立った。乳鉢の中の粉を見ながら、できるだけ何気なく、口を開く。
「先輩、一つ聞いてもいいですか。測定で、抵抗がゼロに見えるだけで、本当はゼロじゃない、って、どんな場合があるんですか」
神崎は手を止めて、淳の顔を見た。
「急にどうして」
「卒論で臨界電流の話が出るので。抵抗ゼロの見分け方は、基本かなと思って」
「……いい心がけ」神崎は、少しだけ目を細めた。それから、指を折り始めた。「一つ目は、この前見たでしょう。電極の短絡。二つ目は温度計。試料より遅れてたり、校正がずれてたりして、本当は超伝導になる温度より上で、ゼロを見たと思い込む」
「はい」
「三つ目は接触。冷やすと、接点の抵抗が変わることがある。電圧を測る端子が、冷やしている間に浮いたり、逆につながったり。四つ目は、測定器の分解能。『ゼロ』って、本当は『測定できる限界より小さい』ってこと。その限界が、どのくらいなのかを知らないと、話にならない」
淳は、神崎の言葉を、必死にノートに書き取った。
「五つ目が、一番厄介」神崎は、指を一本、立てたまま言った。「試料の中に、ほんの少しだけ、超伝導になる部分があるとするでしょう。細い糸みたいに、端から端までつながっていれば、電気は全部、そこを通っちゃう。だから、抵抗はゼロになる。でも、試料の大部分は、ただの金属のまま」
「それは、超伝導とは言えないんですか」
「その糸の部分は、超伝導。でも、『この試料は超伝導体です』とは言えない。全体の何割が超伝導なのか、それを見るのが、磁場を追い出す性質。初日に見せた、あれ」神崎は、円盤の浮く様子を、指で宙に描いた。「抵抗のゼロは、たった一本の糸でも出る。磁場を追い出すのは、体積が要る。だから、両方見ないとだめ」
「両方……」
「それと、簡単に足せる確認の一つが、電流を変えてみること。超伝導なら、電流を大きくしていくと、ある値で、急に抵抗が戻ってくる。それが臨界電流。ただ、これだけで本物と決まるわけじゃない」神崎は、ふっと笑った。「淳くんの卒論のテーマそのものだよ。だから、基本はそこ。宿題ね。五つ、自分の言葉でまとめて、明日持ってきて」
「はい」
淳は頷きながら、心の中で、別のことを考えていた。今、神崎が挙げた五つのうち、地下で読んだノートは、どこまでを潰していたのだろう。四端子。校正。降温と昇温。でも、五つ目は。抵抗の落ち込みだけで、磁場を追い出す測定は、コピーのどこにも見当たらなかった。
もし、あのノートの筆者が、それを見ていたなら、書いたはずだ。
淳は、そのことをノートの余白に、小さく書き留めた。「磁化」。それだけだった。
研究室の中で、これ以上探りを入れるのは、そろそろ限界かもしれない、と淳は感じ始めていた。神崎は疑う。大久保は作れと言う。秋山は時間を見る。桐山は「聞いてみようか」と笑う。どの答えにも、それぞれの立ち位置の根拠があった。けれど、研究室の外の人は、どう見るのだろう。
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