BBQ、白衣を脱いだ先輩たち
肉が焼ける匂いが立ちこめる頃、蓮見も缶ジュース片手にやってきた。白衣を着ていない蓮見を見るのは初めてで、淳は少し新鮮な気分になった。
「蓮見先生、私服姿新鮮ですね」
「そう? 普段からこんな感じだよ」蓮見は笑いながら、紙皿に肉を取り分けた。「淳くん、研究室にはもう慣れた?」
「はい、だいぶ」
「良かった。最初の一ヶ月が一番しんどいからね」蓮見はそう言うと、少し離れたところで神崎と話し込んでいる大久保たちの方に目をやった。「みんな見た目は緩そうだけど、いざというときはちゃんとしてるから。頼っていいよ」
「そういえば、うちの研究室って結構歴史あるんですよね」淳は思いつくままに、蓮見に聞いてみた。「地下に降りる階段、この前ちらっと見ました」
「ああ、あそこね」蓮見は紙皿に視線を落としたまま、軽い調子で答えた。「創立からもう三十年以上経つから、資料もそれなりに溜まってる。でも、正直僕もそんなに詳しくないんだよね。着任したのは五年前だから」
「先生は、もっと長いんですか」
「御堂先生? そりゃ長いよ、あの人がこの研究室そのものだから」蓮見は苦笑いしながら、まだ空いている折りたたみ椅子のほうを、ちらりと見た。「僕が知ってる頃にはもう、今のスタイルが出来上がってた。昔どんな感じだったのかは、僕にもよく分からない」
その言い方には、特に含みがあるようには聞こえなかった。淳もそれ以上は聞かず、話題は自然と別の方向に流れていった。それでも、「僕にもよく分からない」という一言だけが、なんとなく記憶の片隅に残った。
しばらくして、教授の御堂が姿を見せた。白衣ではなく、シンプルなジャケット姿だった。
「先生、来てくれたんですね」神崎が声をかける。
「毎年のことだ」御堂は短く答えると、差し出された紙皿を受け取った。
「先生、去年は肉だけ食べてすぐ帰ったって聞きましたよ」桐山がにやにやしながら言う。
「忙しかっただけだ」
「今年はゆっくりしていってくださいよ」大久保が肉をひっくり返しながら言った。
御堂はそれには答えず、コンロの炎をじっと見つめていた。淳は少し離れたところから、その横顔を眺めていた。研究室では常に白衣を纏い、鋭い眼光でこちらを値踏みするような印象だったが、こうして見ると、ただの一人の中年男性に見えなくもなかった。
会話が一段落したところで、秋山が思い出したように口を開いた。
「そういえば、今週また電気代のニュースやってましたよね。データセンターの需要、まだ伸びてるらしいですよ」
「うちの実家も来た来た、値上げの通知」大久保がため息をついた。
「核融合の実証プラント、建設が決まったって話でしたよね」淳が言うと、桐山が頷いた。
そこに、別研究室の後輩らしき学生が軽い調子で割り込んできた。
「核融合できたら、常温超伝導も実現しないすかね。磁石とか、めちゃくちゃ強いの作れそうだし」
何気ない一言だった。淳も含め、その場の誰もが、ただの軽口として聞き流しかけた。
だが、コンロの前に立っていた御堂の表情が、一瞬だけ動いた。
紙皿を持つ手が、ほんの少しだけ止まる。視線が、輪から少し外れる。それは本当に一瞬のことで、隣で喋っていた大久保も気づいていないようだった。淳もたまたま御堂の方を見ていたから気づいただけで、もしよそ見をしていたら見逃していただろう。
「まあ、それはさすがに夢物語だな」
御堂はそう言うと、缶ジュースを一口飲んで、話題からするりと離れていった。誰かに話しかけられ、そのまま輪の別の場所に移っていく。淳は何となく、その動きが自然すぎるほど自然だったことが、逆に引っかかった。
「先生、意外とノリ悪いんすね、そういう話」後輩が笑いながら言う。
「そういう先生だよ、あの人」神崎が肩をすくめた。それ以上、誰もその話を気にしていないようだった。
淳もすぐに、目の前の肉と、周りの笑い声に意識を戻した。それでも、御堂のあの一瞬の表情だけが、なぜか頭の片隅に、ぽつんと残っていた。
肉が一段落すると、誰からともなくフリスビーが取り出された。桐山が投げ、秋山が受け、それを見ていた淳にも自然とパスが回ってくる。
「淳、下手すぎ」桐山が笑いながら言った。淳の投げたフリスビーは大きく逸れて、河川敷の草むらに転がっていった。
「運動神経ないんで、勘弁してください」
「文系みたいな言い訳すんな、理系だろ」
拾いに走った淳を、神崎が近くのシートから眺めていた。
「淳くん、楽しそうだね」
「楽しいです。こんなにのびのびした感じ、久しぶりかもしれません」
「配属されたばかりの頃は、みんなそう。だんだん、ここが日常になっていくよ」神崎はペットボトルの水を一口飲んで、少し遠くを見た。「私も一年目のときは、右も左も分からなくて、毎日必死だった。今日みたいなBBQでも、ずっと緊張してた記憶がある」
「今の神崎さんからは、想像できないです」
「あったよ、そりゃ」神崎は苦笑いした。「でも今は、こうやって淳くんにフリスビーの下手さをからかう余裕もある。人間、変わるもんだよ」
淳はフリスビーを拾い上げながら、その言葉を噛みしめた。一年後、自分はどんな顔でこの場にいるのだろう。まだ想像もつかなかったけれど、悪くない未来のような気がした。
日が傾き始める頃、片付けが始まった。ゴミ袋に炭の燃えかすを集めながら、淳は秋山と並んで歩いた。
「今日、色々話せてよかったな」秋山が言った。「配属されてまだ一ヶ月なのに、もう馴染んでる感じするわ」
「そうかな」
「うん。最初の顔合わせのときより、全然肩の力抜けてる」
言われてみればそうかもしれない、と淳は思った。桐山の適当さにも、神崎の厳しさにも、大久保のどこか抜けた優しさにも、この一ヶ月ですっかり慣れてしまった。
「秋山は、もう研究室の居心地どう?」
「悪くないよ。ただ、俺はやっぱり就活も見据えてるから、本多さんの話とか、他人事に思えないんだよな」秋山は苦笑いした。「M2になったら、俺もああなるのかと思うと」
「気が早いよ、まだ」
「早いくらいがちょうどいいんだよ」秋山はそう言うと、鞄からいつもの手帳を取り出し、「BBQ・晴天・大久保さん着火成功」とだけ書き込んだ。その几帳面さに、淳はまた小さく笑ってしまった。
その晩、下宿の机で、淳は初日に書いたノートのページを開いた。「御堂先生、地下の階段から。何をしていた?」の下に、もう一行、書き足す。
——「常温超伝導」の一言で、先生の手が止まった。
二つの行を並べて眺めても、何かが分かるわけではない。ただ、二つの間に線を引いてみたくなる自分がいた。その線が何と何をつなぐのかは、まだ分からないままだった。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




