初めての測定、抵抗が落ちる瞬間
四月の終わり、淳が初めて作った試料の測定日がやってきた。
「緊張してる?」
測定室のドアの前で、神崎が振り返って聞いた。
「正直、めちゃくちゃしてます」
「まあ、初めてだしね」神崎はカードキーでドアを開けた。「でも、緊張するほどのことでもないよ。ただの数字が出るだけ」
測定室の中は、試料合成室とはまるで違う空気をしていた。壁一面に配線が這い、中央には大きな円筒形の装置が鎮座している。銀色の配管が幾重にも巻きつき、低い機械音がずっと響いていた。
「これが、低温測定装置」神崎は装置の脇に立って、制御パネルを操作し始めた。「液体ヘリウムで冷やして、極低温まで持っていける。淳くんの試料は、そこまで下げなくても転移するはずだけど」
「転移、っていうのは」
「超伝導状態に切り替わる瞬間のこと。ある温度を境に、電気抵抗がすとんとゼロに落ちる」神崎はモニターに映るグラフを指さした。「温度を下げながら抵抗を測っていく。グラフが落ちれば、成功」
神崎は手袋をはめ、小さな試料ホルダーに、淳がつけた金線つきの欠片を固定した。細い配線を、金線の一本ずつにつないでいく。
「四本あるでしょう」神崎は、ホワイトボードの隅にペンで四つの点を描いた。「外側の二本で電流を流して、内側の二本で電圧を測る。抵抗は電圧割る電流」
「二本じゃ、だめなんですか」
「二本だと、配線や接点の抵抗も一緒に測っちゃう。ゼロを見たいときに、その分が上乗せされたら、何が何だか分からなくなる」神崎はペンの先で、内側の二点を叩いた。「四本なら、電圧を測る線にはほとんど電流が流れないから、配線や接点の電圧降下を拾いにくい。だから、この前みたいにペーストが橋になると、致命的なの」
「あのまま測ってたら、全部台無しになるところだったんですね」
「そういうこと」
もう一つ、神崎はホルダーの先端を指さした。試料のすぐ脇に、小さな金属の粒が取り付けられている。
「これが温度計。……ただし、温度計が教えてくれるのは、温度計の温度。試料が同じ温度とは限らない。冷やす速さが速すぎると、試料のほうが遅れる」
「だから、ゆっくり冷やすんですね」
「うん。ゆっくり、温度を安定させながら。落ち着かない温度では、測ったって意味ないから」
装置の蓋が閉まり、冷却が始まった。モニターの温度表示が、ゆっくりと下がっていく。
「これ、どれくらい時間かかるんですか」
「今日は一時間くらいかな。もっと低い温度まで見たいときは、半日がかりになることもある」
沈黙が落ちる。低い機械音だけが、部屋に響いていた。淳は画面から目を離せずにいた。温度が下がるたびに、抵抗値を示す線が、ゆるやかな坂を描いていく。
「そんなに見てても、急には変わらないよ」神崎が苦笑いした。
「分かってるんですけど、見ちゃいます」
「その気持ち、分かる。私も最初はそうだった」
「先輩は、どうしてこの研究室に来たんですか」待ち時間のあいだに、ふと聞いてみた。
「B3のとき、核融合の講演を聞いたの」神崎は画面から目を離さずに答えた。「プラズマを閉じ込める磁石を作れるかどうかは、結局、材料次第だって話。それを、実験室で自分の手で作れるって、素直に格好いいなと思って。あとは、ちゃんと測れば、必ず答えが出る材料が好きなんだよね。スズ系って、地味だけど、嘘をつかない」
「嘘をつかない、ですか」
「測った通りにしか、ならないってこと。期待しても、祈っても」神崎は小さく笑った。「だから、淳くんもそのうち好きになると思う」
三十分ほど経った頃、モニターの線が、ふいに揺らぎ始めた。抵抗値がわずかに下がり、それから急に落ち込んでいく。
「あ……」
「来た」神崎が身を乗り出した。線はほとんど垂直に近い角度で落ち、やがてゼロに張り付いた。
「これが……」
「うん。超伝導転移」神崎はグラフを指でなぞった。「転移温度も、狙った範囲に入ってる。初めてにしては、かなりいい」
淳は、しばらく画面のグラフから目を離せなかった。ただの線の落ち込みだった。それなのに、自分の手で量って、混ぜて、焼いて、切り出して、金線をつけた欠片が、確かに超伝導という現象を起こしたのだという実感が、じわじわと胸の奥から湧き上がってきた。
「先輩」
「うん」
「これ、間違いっていう可能性は、ないんですか」
聞いてから、我ながら変なことを聞いたと思った。せっかく成功したのに。けれど神崎は、笑わなかった。
「いい質問。むしろ、それを最初に聞けるのは、いいことだよ」神崎は指を折った。「まず、配線を疑う。電極が短絡してないか、接点が浮いてないか。次に、温度計。校正が合ってるか、試料との温度差はないか。それで全部潰して、もう一回測る。それでも出たら、そのとき考える。驚くのは、最後」
「驚くのは、最後」
「順番はいつもそれ。驚くのは、いつでもできるから」
淳は頷いて、その言葉を頭の中で繰り返した。成功して嬉しい、その気持ちを、いったん脇に置いて、順番に疑っていく。それが研究の作法なのだと、初めて分かった気がした。
「今日のは、大丈夫そう。電極は測る前にちゃんと確認したし、温度計の校正は先週やってる。あとは、転移の幅がちょっと広いのが気になるけど」
「広いと、何か問題があるんですか」
「幅が広いのは、試料の中にムラがあるサイン。場所によって、転移する温度が違うってこと。混ぜ方か、焼き方か。改善の余地があるから、次はそこを詰めよう」神崎はそう言うと、口元にわずかな笑みを浮かべた。「でも、いいスタートだと思う」
「このあと、ゆっくり温度を戻しながら、もう一回測る」神崎はパネルを操作した。「冷やしながら測ったのと、温めながら測ったので、転移の温度がほとんど同じなら、温度計の遅れは小さいってこと。ずれてたら、その分は疑う」
温度が戻っていく間、二本目のグラフが、一本目の上に重なるように描かれていった。落ち込みの位置は、ほとんど同じだった。神崎は「よし」とだけ言って、二本の線の重なりを、爪の先で画面に軽く叩いた。
「これで、卒論の第一歩ですね」
「まだ第一歩だよ。ここから、臨界電流をちゃんと測って、材料としての実力を出さなきゃいけないから」
装置の低い唸りを聞きながら、淳はグラフの落ち込みを、もう一度だけ目に焼きつけた。
測定室を出ると、廊下の窓から差し込む夕方の光が、やけに眩しかった。初日に見た浮かぶ磁石と、今日のグラフの落ち込みは、同じ現象の二つの顔なのだ。そのうちの一つを、今日、自分の手で見た。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




