塊の断面、測る前の一週間
翌朝、淳が試料合成室に顔を出すと、神崎はすでに炉の前にいた。
「おはよう。ちょうどいいタイミング」神崎は炉の扉を指さした。「取り出すよ」
耐熱手袋をはめた神崎が、慎重に坩堝を取り出す。中には、灰色がかった塊が一つ、静かに収まっていた。昨日の粉末とは似ても似つかない、しっかりとした固体だった。
「これが……できたんですか」
「まだ『できた』とは言えない。見た目じゃ何も分からないから」神崎は塊を光にかざした。「表面にひびが入ってないか、色ムラがないか、目視でチェックするだけ。中身がどうなってるかは、測定してみないと分からない」
「見た目は、悪くないんですか」
「うん、悪くない。初めてにしては上出来」神崎はそう言って、塊をトレーに乗せた。「じゃあ、切ろうか」
ダイヤモンドカッターの高い音が、試料合成室に響く。塊はゆっくりと、薄い板状に切り分けられていった。切り出された小さな欠片を手に取ると、思ったよりずっしりと重い。
「これ、本当にちゃんと超伝導になってるんですかね」
「なってなかったら、また最初からやり直し」神崎はあっさり言った。「研究なんて、そんなもの。九割は失敗する前提で、それでも手を動かし続けるしかない」
泥臭い言葉だった。それでも、嫌な感じはしなかった。むしろ、少しだけわくわくした。
「お、淳の初試料か」
缶コーヒーを片手に、大久保が「どっこいしょ」と作業台の脇の椅子に腰を下ろした。
「見せて見せて。……へえ、ちゃんと締まってるな。初めてでこの密度は、なかなかだよ」
「太一は焼結の専門家だから」神崎が言った。
「専門家ってほどじゃないけどさ」大久保は欠片を指先で転がしながら続けた。「焼結やってると、同じ配合で、同じ温度まで上げても、冷やし方でまるで別物になることがあるんだよな」
「冷やし方、ですか」
「うん。ゆっくり冷ますと、原子が落ち着く場所に並び直す時間がある。急に冷ますと、途中の並びのまま固まって、内側に歪みが残る。歪みは、たいていは悪者なんだけど」
「たいていは?」
「たまに、歪みのおかげで性質が良くなる材料もある。だから面白いんだよ、これが」大久保は珍しく、目を輝かせていた。
「それ、淳くんの試料には関係ない話だからね」神崎が釘を刺した。「この系はゆっくり冷ますって決まってるの」
「分かってるって。ただの雑談」
大久保は欠片を淳の手に戻し、缶コーヒーを飲み干して、また「どっこいしょ」と立ち上がった。歳のわりに、と最初は思ったその掛け声が、淳にはもう、この部屋の音の一部のように聞こえた。
それから一週間、淳は測定の準備に追われた。切り出した欠片の面を紙やすりで整え、表面の汚れを落とし、寸法を測る。予約の空きが出るまでの間に、試料に電極をつける作業を覚えなければならなかった。
金曜の午後、神崎が淳を、顕微鏡の前の席に座らせた。
「今日は電極。試料に、細い金線を四本つける。つなぐのは銀ペーストで」神崎は、爪楊枝の先にごく小さな点を作ってみせた。「ペーストの量は、この点くらい。多いと、隣とつながる」
「つながると、どうなるんですか」
「やってみれば分かる」
接眼レンズを覗くと、試料の表面が山脈のように見えた。その上に、金線の端を置き、爪楊枝の先で銀色の点をそっと落としていく。息を止めても、手の震えが視野の中で何倍にも拡大される。一本目、二本目、三本目。四本目をつけ終えたときには、額に汗がにじんでいた。
「できました」
「じゃあ、確認ね」神崎はテスターを手に取り、二本の金線の端に当てた。
ピー、と短く電子音が鳴った。
「……鳴りましたね」
「鳴っちゃいけないところで鳴った」神崎は顕微鏡の視野を淳に譲った。「二本目と三本目の間、見て」
覗き込むと、銀色の細い筋が、二つの点を橋のようにつないでいた。
「電圧を測る二本がペーストでつながると、試料に何が起きても、そこの電圧はほとんどゼロになる。抵抗が『ゼロ』に見えるの。冷やしてる最中に、ペーストが縮んでつながることだってある」
「ゼロに、見える……」
「超伝導ですって顔をして、何度でもね。一番やってはいけない失敗の一つ」神崎はテスターを置いた。「ただ、ここで見つかってよかった。測る前に確かめるのが、テスターの仕事。溶剤で拭いて、もう一回」
淳は溶剤で銀色を拭き取り、深呼吸して、最初からやり直した。今度は、点をさらに小さくする。爪楊枝の先が、視野の中で銀の針のように光った。
「私の初めての試料はね」神崎が横から声をかけた。「配線ミスでノイズだらけのグラフしか取れなかった。蓮見さんに、一から測定のやり直しを命じられて、あのときは本当に落ち込んだ」
「……それ、僕もやりそうです。今のうちに聞けてよかったです」
「でも、そのおかげで配線の基本だけは、誰よりも身体に染みついた」神崎は少し得意げに続けた。「失敗も、ちゃんと財産になるから」
二度目の確認では、テスターは鳴らず、抵抗値も、素子そのものの値のままだった。
「ご苦労さま」神崎は笑って、ペーストを乾かすための小さなケースを、淳に手渡した。「来週の火曜、測定室の予約が入った。今日の手つき、覚えておくといいよ」
居室に戻ると、淳は貸与されたノートを開き、今日の作業を書き留めた。「電極四本。銀ペースト。失敗一回」と、箇条書きで三行。
通りかかった神崎が、肩越しにノートを覗き込んだ。
「淳くん、それ、明日の淳くんが読んで分かる?」
「え……分かる、と思います」
「一年後の淳くんは? 後輩が読んだら?」神崎は三行目を、指でとんと叩いた。「『失敗』だけじゃ、何がどう失敗したのか分からない。何をして、どうなって、どう直したか。ペーストの点の大きさ、拭いた溶剤、やり直した回数。数字は消しゴムで消さないで、間違えたら二重線を引いて、脇に書き直す。消したら、間違えたこと自体が、記録から消えちゃうから」
「間違いも、記録なんですね」
「実験ノートは、あとから他の人が、同じことをできるように書くもの。何年たっても。読めない字と省略だらけのノートは、ただの落書き」
淳はペンを持ち直し、三行を書き直した。銀ペーストは爪楊枝の先端の半分ほどの量。二本目と三本目の間が橋になり、テスターで導通を確認。溶剤で除去して再塗布。二回目は、橋の導通なし。書き終えると、ページの半分が、細かい字で埋まっていた。今日という一日が、初めてちゃんとした形になったような気がした。
作業を終えて廊下に出ると、測定室のガラス窓の向こうに、見たこともない形の装置がいくつも並んでいるのが見えた。銀色のパイプと配線が絡み合った様子は、まるで別の惑星の機械のようだ。来週には、あの中のどれかに、自分がつけた四本の金線が、つながれる。淳はケースを両手で包み込むようにして、しばらくその窓の前に立っていた。
お読みいただきありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆での評価をいただけると励みになります。




