初めての試料、粉末から塊へ
配属から三週間が経ち、学生居室の机まわりも、ようやく自分の場所らしくなってきた。付箋だらけの参考書、まだ半分しか読めていない論文の束、電子レンジの位置まで覚えるくらいには、この建物にも慣れた。
この三週間、淳は主に見学と下読みばかりをしていた。神崎や蓮見の実験に付き添って道具の名前を覚え、論文のイントロダクションを読んでは、分からない単語をノートに書き溜めていく。地味と言えば地味な日々だったけれど、初日に神崎が見せてくれた、あの浮かぶ磁石の余韻は、三週間たっても消えていなかった。あれを見る側から、作る側に回る日が、今日だった。
その朝、淳が居室に着くと、すでに秋山が手帳を開いて何かを確認していた。
「おはよう」
「おう。今日、試料合成の本番だろ」秋山は手帳から顔も上げずに言った。「神崎さん、時間にはうるさいから、五分前には行っといたほうがいいぞ」
「ありがとう、覚えとく」
ちょうどいい忠告だった。淳は荷物を置くと、早足で試料合成室へ向かった。
試料合成室の空気は、いつも少しだけ埃っぽい。
窓のない部屋には、壁一面に工具や治具がきれいに並べられていて、中央に大きなステンレスの作業台がある。その脇に、密閉されたグローブボックスと、無骨な電気炉が二台、並んで鎮座していた。初めて足を踏み入れたときは、その物々しさに気圧されたものだったが、三週間も通えば、居心地の良ささえ感じるようになっていた。
グローブボックスの中には、配合表の一行目にある原料が、小さな瓶に入って待っていた。銀灰色のスズの粉末だった。
分厚いゴム手袋越しに物をつまむのは、思っていたよりずっと難しい。指先の感覚が半分くらいしか伝わってこないせいで、力加減がいつも大袈裟になってしまう。最初の数日は、薬さじを何度も取り落として、神崎に呆れられたものだった。それでも三週間も繰り返せば、少しずつ手が慣れてくるのが自分でも分かる。今日は、その慣れた手つきを試す日だった。
配合表には、原料ごとに目標の量と許容の範囲が並んでいる。今日の一行目は、スズの粉末。目標は0.482 g、許容は前後0.003 gまで。二行目以降の原料にも、それぞれ別の量が書かれていた。
淳は薬さじで粉末をすくい、天秤の皿に落とした。表示が動かなくなるのを待って、数字を読む。0.497 g。
ほぼ0.5 g。これくらいなら、と淳は顔を上げた。
「淳くん、それは多い」
神崎玲の声に、淳は思わず手を止める。
「え、でも先輩、目標は0.482ですよね。0.497なら、ほとんど合ってるじゃないですか」
「許容は0.003まで。今は0.015多い」神崎は天秤の表示を指さした。「読み方は合ってる。でも、目標との差を見ないで『だいたい合ってる』で済ませてる」
「量って、そんなにきっちり合わせるんですか」
「混ぜる割合が変わると、できるものも変わるからね」神崎はグローブの中で、薬さじを淳の手に戻した。「毎回ずれていたら、焼き方を変えた効果なのか、配合が違うせいなのか、あとから分からなくなる。比べられる実験にするために、量るの」
「原料の重さは、全部同じじゃないんですね」淳は配合表を見直した。
「うん。配合は原子の数の比で決めてあるの。原子は種類ごとに重さが違うから、同じ数ずつ混ぜたければ、量る重さは原料ごとに変わる。その計算はもう表に入ってる。だから、表の数字のとおりに量る」
「私も配属されたばかりの頃、許容を超えたまま混ぜて、一週間分のデータを取り直したことがある」神崎はふと思い出したように言った。「あれは凹んだ」
「……気をつけます。戻すときのコツ、教えてもらえますか」
「誰でもある。同じ失敗を二回しないようにしてるだけ」神崎は天秤の画面をとんとんと指で叩いた。「戻すのは面倒だから、次からは目標の手前まですくって、最後は少しずつ足して合わせるといい」
淳は粉末を薬さじで少しずつ戻していった。0.489、0.484、0.482。表示が止まる。
「……先輩、これでどうですか」
「うん。許容の中。それでいい」
短い言葉だったけれど、淳は妙に嬉しかった。たかが粉末の重さ一つ。それでも、何かを「正しくやれた」という手応えは、悪くなかった。
「量ったら、次は混ぜる」神崎は乳鉢を取り出し、淳の前に置いた。「粉末を均一に混ぜて、できるだけ細かくすり潰す。これが雑だと、炉に入れたときに反応にムラが出る」
淳は乳棒を手に、慎重に粉末をすり潰し始めた。単純な作業に見えて、思ったより力の入れ具合が難しい。強く押しすぎると乳鉢の縁から粉がこぼれ、弱すぎるといつまで経っても粒が粗いままだった。
「もっと根気強く。最低でも十五分はやって」神崎は淳の手元を覗き込みながら言った。「面倒な作業だけど、ここを丁寧にやるかどうかで、後の結果がだいぶ変わる」
「地味ですね」
「地味だよ。でも、こういう地味な積み重ねが、一番効くから」
その言葉に、淳は妙に納得した。すり潰す音だけが、しばらく試料合成室に響いた。
「あと、原料は汚さないこと」神崎が乳鉢の脇に、別の薬さじを置いた。「薬さじは原料ごとに分ける。皿はそのつど拭く。ボックスの外の空気にも触れさせない。原料そのものは、この系で実績のある品質のものを注文してあるから、私たちの仕事は、それを使い切るまで余計なものを混ぜないこと」
「混ざると、どうなるんですか」
「量った重さも、狙った組成もずれる。何が混ざったのかも、あとから見分けられない」
「じゃあ、次。炉に入れる準備」
神崎はグローブボックスの脇にある電気炉を指さした。無骨な金属の箱で、扉には小さな覗き窓がついている。壁のフックには、遮光ゴーグルが何個もぶら下がっていた。
「これ、着けるんですか」
「高温になると、覗き窓からでも結構眩しいから。あと、稀に試料が弾けることもあるし」神崎はゴーグルを一つ手渡しながら言った。「安全第一。ここで怪我したら、元も子もないから」
淳はゴーグルを受け取り、鼻の上に載せた。視界がわずかに暗くなる。これから本当に何かが始まるのだという実感が、ようやく湧いてきた。
「先輩、そもそもなんでスズ系なんですか。他にも候補あるんですよね、超伝導材料って」
「銅酸化物系とか、鉄系とか、色々あるよ。うちはもともとスズ系で実績があって、御堂先生の方針でそこを掘り続けてる」神崎はグローブボックスの扉を確認しながら答えた。「地味な材料だけど、その分、まだ誰も踏んでない道が残ってる」
「先生の方針……」
「詳しいことは知らないけど、昔からずっとこの系統をやってるみたい。私が入る前から」
その一言に、淳は特に何かを感じたわけではなかった。研究室にはそれぞれの歴史があるものだろう、というくらいの受け止め方だった。
「これ、何度まで上がるんですか」
「最高で千二百度くらい。まあ今回はそこまで上げないけど」神崎は制御パネルを操作しながら、慣れた手つきで温度プログラムを入力していく。「昇温レートも大事。急に上げると試料が割れたり、変な相ができたりする。今回は一時間かけて三百度、そこから二時間かけて八百度まで持っていく。冷ますのも炉の中で、時間をかけてね」
「そんなに時間かけるんですか」
「気が長い仕事だよ、これは」神崎は苦笑いした。「淳くんのテーマのスズ系だと、融点自体はそこまで高くないけど、それでも急冷・急加熱は厳禁。ゆっくり、丁寧に、が基本」
淳は炉の小窓から中を覗き込んだ。まだ何も入っていない、ただの空洞が見えるだけだった。それでも、ここでこれから何が起きるのかを想像すると、妙に胸が高鳴った。
「試料、入れてみて」
粉末を詰めた坩堝を、慎重に炉の中央に置く。手が震えないように、と自分に言い聞かせながら。
「うん、いいね」神崎は覗き込んで頷いた。「じゃあ、扉閉めて、プログラムスタート」
ボタンを押すと、炉の内部でヒーターがうっすらと赤く色づき始めた。制御パネルの表示が、ゆっくりと温度を刻んでいく。
「これ、ずっと見てなきゃダメなんですか」
「プログラム通りに勝手に上がっていくから、張り付いてる必要はないよ。ただ、異音とかエラー表示が出たら呼んで」神崎はそう言うと、腕時計に目をやった。「三時間くらいかかるから、その間は休憩しよ」
淳は休憩に向かう前に、制御パネルの数字をもう一度だけ見た。もう、百度を超えていた。明日の朝、あの坩堝の中には何が入っているのだろう。
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