浮かぶ磁石、地下から来た人
学生居室に割り当てられた机は、窓際から二番目、桐山の隣だった。段ボール一箱分の私物を運び入れ、パソコンを設置し終える頃には、もう昼近くになっていた。
「昼、どうする?」桐山がイヤホンを外しながら声をかけてきた。「生協行こうぜ。秋山も行くだろ」
「行く」秋山は手帳を閉じながら短く答えた。
生協食堂では、桐山が唐揚げ定食を、秋山が野菜多めの定食を選んだ。人となりが、こんなところにも出るものかもしれない。
「そういえば佐伯って、地方出身なんだっけ」向かいに座った桐山が、箸を割りながら聞いてきた。
「はい。商店街があって、あと田んぼも多いところです」
「地方出身、いいよな。僕、生まれも育ちもこっちだからさ、ちょっと憧れる」桐山は唐揚げを頬張りながら、どこか遠い目をした。「本多さん、今日面接だっけ。あの人、毎回顔色悪くしてるもんな」
秋山は手帳に「本多さん・就活・苦労」とだけ小さく書き込んだ。今日知ったばかりの情報も、律儀に記録していくらしい。
午後は、蓮見に呼ばれて入室許可証と名前入りの白衣を受け取った。真新しい白衣は、袖を通すとどこかよそよそしい手触りがする。「研究室にいる間はできるだけ着てね。あと、これがないと開かないドアがあるから」と、蓮見が胸ポケットに縫い付けられたICタグを指さした。続けて、安全講習の動画を三本。薬品の取り扱い、火災時の避難経路、非常用シャワーの位置。全問正解の確認テストに、蓮見は苦笑いした。「真面目だね、初日から」
四時を過ぎた頃、神崎が居室の入口から顔を出した。
「淳くん、まだ体力ある? 新入りには毎年見せてるものがあるから、ついてきて」
「見せてるもの、ですか」
「来れば分かる」
連れていかれたのは、測定室の隣の小部屋だった。棚の下段に、銀色の大きな魔法瓶のような容器がいくつも並んでいる。神崎は厚手の手袋をはめると、そのうちの一つの栓を抜いた。白い靄が、床を這うように広がる。
「液体窒素。マイナス百九十六度。これ、渡すから着けて」
渡されたゴーグルと手袋を身につけると、神崎は発泡スチロールの浅い皿に、少しだけ液体を注いだ。じゅっと激しく泡立って、やがて静かになる。神崎はピンセットで、黒くて小さな円盤をつまみ上げ、皿の底に沈めた。
「イットリウム系の超伝導体。転移温度は九十三ケルビン、マイナス百八十度くらい。液体窒素はそれよりずっと冷たいから、これを入れておけば超伝導になる」神崎は皿を覗き込んだ。「泡が収まったら合図。……いいね。はい、これ乗せて」
渡されたのは、銀色の小さな磁石だった。淳はピンセットで挟んで、円盤の上にそっと置いた。
磁石は、円盤に触れなかった。
指一本ぶんくらいの高さで、ふわりと止まった。淳は思わず息を止めた。手袋の指先で、ピンセットの先ごしに、ほんの少し押すと、磁石はくるりと回って、また同じ高さでぴたりと静止する。
「……浮いてる」
「浮いてるね」神崎は満足そうに頷いた。「見たことある?」
「子供のとき、科学館で一度。理屈は分からないままでしたけど」
「じゃあ今日、理屈を一つ持って帰って」神崎は円盤を指さした。「超伝導には顔が二つある。一つは、電気抵抗がゼロになること。もう一つがこれ。超伝導体は、磁場を体の中に入れないの。磁石が近づくと、それを押し返す電流が表面に流れて、その反発で浮く。それでふらつかずに位置を保つのは、少しだけ入り込んだ磁場の筋が、材料の小さな欠陥に引っかかって動けなくなるから。押しても元の高さに戻るのは、そのせい」
「抵抗がゼロなだけじゃ、足りないんですか」
「足りないよ」神崎はあっさり言った。「抵抗がゼロに『見える』だけの物質は、いくらでもある。磁場を追い出すところまで見て、はじめて超伝導だって言える。研究室の外の人には、つい忘れられがちだけど」
淳は磁石をもう一度、ピンセットの先でそっと押した。かすかに揺れて、また元の高さに戻る。
「液体窒素、絶対に密閉した容器には入れないでね」神崎は、皿の脇の魔法瓶に、緩く載せるだけの栓を戻しながら言った。「蒸発すると、体積が七百倍近くになる。容器は破裂するし、狭い部屋で漏れたら、空気の酸素が薄くなる。だからこの部屋の壁には酸素濃度計がついてるし、扉は開けておく決まり」
指さされたほうを見ると、入口の脇の壁に、緑のランプが灯った四角い機械が取り付けられていた。数字が「20.9」と表示されている。
「覚えとくのは、それだけ。あとは慣れ」
「先輩、もし」淳は皿の中の円盤を見つめたまま口を開いた。「もし、冷やさなくても、これが浮いたらどうなるんですか」
「室温で?」神崎は片方の眉を上げた。「世界中の研究者が、何十年もそれを探してる。今日のところは、マイナス百九十六度で我慢して」
そう言って笑った神崎の顔は、意外なほど楽しそうだった。
「うちの研究室、新入りには毎年これを見せてるの。淳くんの顔、去年の私と同じだったよ」
「先輩も、浮くの見て?」
「三十分くらい、皿の前から動けなかった」神崎は笑いながら、円盤をピンセットで引き上げた。「明日からは、これを見る側じゃなくて、作る側だからね」
液体窒素の白い靄の向こうで、円盤の表面がゆっくりと霜に覆われていく。子供のとき、歓声を上げた自分が、少しだけ戻ってきたような気がした。
六時を過ぎて、淳は居室に戻り、荷物をまとめた。桐山はまだモニターの前にいて、「お疲れっす」と片手を上げる。淳は会釈を返して、エレベーターに向かった。
廊下の突き当たり、階段の入り口に、小さく「地下」とだけ書かれた案内板が下がっている。蓮見が案内の途中に言っていた場所だ。何気なくそちらに目をやったとき、階段の暗がりから、足音が上がってきた。
白衣の裾が見えた。
御堂だった。
淳を見て、御堂は一瞬だけ足を止めた。白衣の袖が、灰色に薄く汚れている。手には何も持っていない。
「……佐伯くんか」
「お疲れさまです」
「帰りか」御堂は袖の埃を、ゆっくりと払った。「初日から、遅くまで残る必要はない」
「はい。ありがとうございます」
それ以上、御堂は何も言わなかった。階段の暗がりを背に、教授室のほうへ歩いていく。足音は、いつもと同じ速さだった。
淳は、その場に立ったまま、御堂の背中を見送った。滅多に誰も行かない、と蓮見は言った。二年前の貸出簿が最後だとも。それなのに、配属初日の夕方に、教授が地下から上がってきた。
たまたま、だろう。教授には教授の用事がある。そう思いながらも、淳はエレベーターに向かう足を止め、来た道を引き返した。
指導教員室のドアをノックすると、蓮見はまだ机に向かっていた。
「どうしたの、忘れ物?」
「あの、地下の資料室のことなんですが」淳は、自分でも意外なほど、するりと口にしていた。「整理とか、手が足りないようなら、手伝います」
「え?」蓮見は目を丸くして、それから小さく吹き出した。「ずいぶん、物好きだね。……そういえば、学科から古い書類を整理してほしいって話が出てるんだ。いつになるか分からないけど、そのときはお願いするかもしれない」
「お願いします」
「うん。覚えとくよ」
指導教員室を出て、淳は居室の机に戻った。貸与されたノートを一冊開く。表紙には何も書かれていない、ただの大学ノートだった。一ページ目に、今日の日付を書く。それから、少し迷って、その下に一行だけ足した。
——御堂先生、地下の階段から。何をしていた?
配属初日の一ページ目に書くことではないかもしれない。けれど、書かずにはいられなかった。淳はペンを置き、消えかけた夕日の残る窓の外を、しばらく眺めていた。
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