蓮見先生と地下の鍵
指導教員室のドアをノックすると、中から柔らかい声が返ってきた。
「どうぞ」
机の向こうで、柔和な顔立ちの男が立ち上がった。
「蓮見です。今日から、よろしくお願いします」
丁寧な口調に、淳もつられて深く頭を下げる。
「よろしくお願いします、佐伯です」
「淳くん、でいいかな。座って」蓮見は向かいの椅子を勧めながら、机の上にファイルを広げた。「今日はガイダンス的な話を少しだけ。研究室のルールとか、装置の予約の仕方とか。本格的な実験は、明日から神崎さんについてもらう形になる」
「はい、よろしくお願いします」
「淳くんのテーマは、スズ系の超伝導材料の臨界電流評価。……って言っても、まだピンとこないよね。ざっくり言うと、電気を目一杯流しても超伝導のまま保てる限界を測る、っていう仕事」
「その限界が高いほど、強い磁石が作れる、ということですか」
蓮見は少し驚いたように目を丸くしてから、笑った。
「その通り。予習してきた?」
「いえ、なんとなく……そうかなって」
「筋はいいと思うよ」蓮見はそう言うと、ファイルを閉じた。「せっかくだし、部屋を一通り案内しとくね」
蓮見について廊下を進むと、いくつかのドアが並んでいた。
「ここが試料合成室。炉とグローブボックスがある。神崎さんに教わるのは主にここ」蓮見はガラス窓越しに中を指さした。中では誰かが白い作業着姿で、何か細かい作業をしているのが見える。「隣が測定室。低温測定の装置が入ってるから、勝手に触らないようにね。装置は取り合いになるから、予約表は絶対に守ること」
「予約表、ですか」
「うん、共有カレンダーで管理してる。あとで使い方教えるよ」蓮見はさらに廊下を進み、突き当りのドアを指した。「あっちが教授室。で、こっちの角部屋が、僕の部屋」
「先生方も、それぞれ個室があるんですね」
「まあ、狭いけどね」蓮見は苦笑した。「学生居室はさっき通ってきた通り。あとは——」蓮見は一瞬、言葉を切った。「地下に資料室があるけど、あそこはあんまり気にしなくていいよ。古い資料が置いてあるだけだから」
「地下、ですか」
「うん。滅多に誰も行かない」蓮見は肩をすくめた。「鍵は僕と教授が持ってる。入るときは、僕の部屋の貸出簿に名前と日付を書く決まりなんだけど、最後に書き込みがあったのは、たしか二年前かな」
「二年も、誰も」
「学科の古い資料を置く場所ってだけだからね」
それだけ言うと、蓮見はまた歩き出した。深い意味のある口調ではなかった。むしろ、話のついでに付け加えただけ、という調子だった。淳もそれ以上は聞かず、蓮見の後についていった。
「今日はまず、教授に挨拶をしてから——ああ、来た」
廊下から、落ち着いた足音が近づいてくる。ドアが開くと、白衣を羽織った、白髪交じりの男が姿を見せた。眼光だけが、妙に鋭い。
「御堂です」
短い自己紹介だった。淳は思わず背筋を伸ばす。
「佐伯淳です。よろしくお願いします」
御堂は淳の顔を、一瞬だけ、値踏みするように見た。それから、ふ、と表情を緩める。
「今日のニュース、見たか」
「……核融合の、実証炉の話ですか」
「そう。あれが動く日が来れば、次に足りなくなるのは何か分かるか」
淳は少し考えて、答えた。
「磁石、ですか。核融合炉って、プラズマを磁場で閉じ込めるから」
「その通り」御堂は小さく頷いた。「強力な磁場を、途切れずに作り続けるための磁石材料。それが、次の主戦場になる。私たちがやっているのは、その材料の——ほんの端っこだ。地味に見えるかもしれないが」
「いえ」淳は思わず口を挟んでいた。「なんか、面白そうです」
「面白そう、か」御堂は繰り返した。そこに皮肉の色はなかった。「臨界電流は知っているな。蓮見くんから聞いたか」
「はい、さっき」
「電流を上げていくと、ある値を境に、突然、超伝導ではなくなる。抵抗がゼロだったはずの試料に、急に抵抗が生まれる。その境目の電流値が、材料としての実力を決める」御堂は淳の反応を確かめるように、少し間を置いた。「なぜ、境目があると思う」
淳は一瞬詰まった。答えを知っているわけではない。それでも、黙っているのも違う気がした。
「……磁場、ですか。電流を流すと、それ自体が磁場を作るので」
「悪くない」御堂は目を細めた。「今日のところは、それで十分だ。追い追い、ちゃんと分かるようになる」
その言い方には、突き放すような響きと、どこか面倒を見るような響きが混ざっていた。淳はただ頷いた。
「一つ、聞いていいですか」淳は思い切って口を開いた。「先生は、なんでこの材料を選んだんですか。スズ系って、あまり聞いたことがなくて」
御堂はわずかに目を細めた。すぐには答えず、しばらく淳の顔を見つめていた。
「……派手さのない材料だ。銅酸化物系や鉄系ほど注目もされない」御堂はそう前置きしてから、続けた。「だが、まだ誰も踏んでいない場所が残っている。派手な場所より、そういう場所の方が、私は性に合っている」
「なるほど……」
正直なところ、淳にはその答えの半分も理解できていなかった。それでも、御堂の声にこもった何かは、淳の胸に小さく引っかかった。
「出身は」御堂がふいに話題を変えた。
「え……地方です。在来線で三時間くらいの」
「そうか」御堂は窓の外に目をやった。「遠くから出てきたんだな」
「はい。祖父母の代から、あの辺りに住んでるみたいで」
御堂はそれだけ言うと、また淳の方に向き直った。何かを確かめるような、それでいて懐かしむような目だった。「この研究室も、案外歴史は長い。三十年以上前からある」
「そうなんですか」
「昔のことを知っている人間は、もうほとんど残っていないがな」
その言い方に、淳は特に引っかかりを覚えなかった。どこの研究室にも、それなりの歴史があるものだろう。御堂の声はいつもと変わらず、淡々としていた。
「今日は顔合わせだけでいい。明日から、神崎くんの指導を受けてくれ」
それだけ言うと、御堂は白衣の裾を翻して、教授室へと戻っていった。廊下に一人残された淳は、その後ろ姿をしばらく見送ってから、蓮見の待つ指導教員室に戻った。
「気に入られたみたいだね」蓮見は、湯呑みを二つ並べながら笑った。「さっきの『なぜ境目があると思う』は、先生が新入りに毎年出す質問なんだ。去年の神崎さんは、『分かりません』って即答してさ。先生、それがえらく気に入ってた」
「分からないって言うほうが、良かったんでしょうか」
「どっちでもいいんだと思うよ。先生が見てるのは、答えの正しさより、考えた跡があるかどうか。淳くんの『磁場ですか』は、ちゃんと考えた跡があった」蓮見は湯呑みを一つ、淳の前に置いた。「まあ、あの人は褒めるときも、あの調子だから。分かりにくいけどね」
「それと、実験ノートは、月に一度、僕が目を通すから」蓮見は、付け加えた。「読めない字と、省略だらけの記録は、赤ペンで突き返す。厳しいけど、あれがいちばん、自分の身を守ってくれるんだよ」
温かい茶を飲みながら、淳は、御堂の「悪くない」という一言を、もう一度だけ思い出していた。あれは、たぶん褒め言葉だった。そう思うと、少しだけ背筋が伸びた。
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