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臨界温度 ― 三十年前の「ゼロ」を追え。  作者: 五月山 雪


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配属初日、四月の朝

「抵抗値、ほぼゼロを確認。再現性あり」

「室温付近での転移を疑う。要再測定」

「三回目も同様の結果。これは……」


  ——古い実験ノートより


*


万年床から半身を起こすと、カーテンの隙間から四月の光が斜めに差し込んでいた。佐伯淳は目を擦りながら、点けっぱなしのテレビの方に顔を向けた。


六畳一間の部屋には、まだ開いていない段ボールが二つ、部屋の隅に積まれたままになっている。引っ越してきてもう三週間経つのに、本棚に本を並べる気力がまだ湧かない。ノートパソコンの横には、高校の卒業アルバムと、物理の教科書が並んで転がっている。あの頃から、面白そうなものを追いかけてここまで来た気がする。


ニュースキャスターの声が、抑揚のない口調で数字を読み上げている。


「——家庭向け電気料金は、前年同月比でおよそ二十三パーセントの上昇となりました。主な要因として、データセンターの急増に伴う電力需要の拡大が挙げられています」


画面には、スーパーの店頭で買い物袋を提げた主婦が、困り顔でインタビューに答えている映像が流れていた。「もう、うちは扇風機に戻そうかって話してるんです」という声に、スタジオのアナウンサーが神妙な顔で頷く。


淳は布団の上に座ったまま、しばらくぼんやりと画面を眺めていた。もう聞き飽きた話だ。AIが計算をするたび電気を食う。電気を食えば、電気代が上がる。上がった電気代を、みんなが払う。単純な話のはずなのに、誰も止められない。


画面が切り替わり、今度は別のニュースが流れ始めた。


「一方、政府は本日、核融合発電の実証炉の建設を正式に決定したと発表しました。実現すれば、世界初の商用規模での——」


淳はリモコンに手を伸ばしかけて、やめた。核融合。エネルギー問題を根本から解決するかもしれない、その言葉の響きには、いつも少しだけ胸が高鳴る。高校の物理の授業で、太陽の中心でどうやってエネルギーが生まれているかを習ったとき、淳は妙に興奮して友人に力説した記憶がある。あのときの友人の白けた顔まで、なぜか鮮明に思い出せた。


そういえば、と淳は思い出す。もっと前——たしか小学生の頃、家族で出かけた科学館で、小さな磁石が銀色の円盤の上にふわりと浮かんでいるのを見たことがあった。「超伝導体を冷やすと、磁石が浮くんですよ」と説明員が言い、子供たちがわっと歓声を上げた。淳もその一人だった。理屈はまるで分からなかったけれど、「冷やすと浮く」という事実だけが、妙に頭にこびりついて離れなかった。今思えば、あの日のことが、回り回って今日の配属先につながっているのかもしれない。誰かに話したら笑われそうな理由だ。


核融合炉は、超高温のプラズマを閉じ込めておくために、絶え間なく強力な磁場を作り続ける必要がある。その磁石の性能を左右するのが、超伝導体という材料だ。今日から配属される研究室が、その材料開発の端くれに関わっていることを、淳はまだぼんやりとしか理解していなかった。


時計を見て、淳は飛び起きた。八時四十分。配属初日から遅刻するわけにはいかない。


洗面所で歯を磨きながら、鏡に映る自分の寝癖を見て舌打ちする。何度水で撫でつけても、右の後頭部だけが頑固に跳ねたままだった。クローゼットから引っ張り出したシャツに袖を通し、トーストを一枚くわえたまま、スマートフォンの画面を確認する。実家の母から「今日から研究室だっけ、頑張ってね」とだけメッセージが届いていた。既読だけつけて、返事は後回しにする。


大学の最寄り駅から大学までの道は、桜の名残がまだアスファルトの隅にへばりついていた。淳は早足で歩きながら、何度もスマートフォンで地図を確認した。帝都科学大学、工学部棟、三階の一番奥。研究室の名前は、配属説明会の資料でずっと前から知っていたけれど、実際に足を踏み入れるのは今日が初めてだった。


キャンパスの中央を貫く並木道には、まだ入学式の余韻を残した一年生らしき集団が、地図アプリを片手にうろうろしていた。淳自身も、三年前はああだったはずだ。今はもう迷わず歩けるくらいには、この場所に慣れている。理学部棟の脇を抜け、生協の前を通り過ぎると、工学部棟の無骨な灰色の外壁が見えてくる。他の建物に比べて、この建物だけがどこか年季が入っているように見えるのは、気のせいだろうか。


淳は歩調を速めた。正面玄関をくぐり、エレベーターに乗り込む。少し古い、埃と機械油が混ざったような匂いがした。三階でドアが開くと、廊下の奥から誰かの笑い声が聞こえてくる。


「あ、新四年生?」


声をかけてきたのは、猫背気味の男だった。パーカーのフードを首元に垂らし、片耳にイヤホンをつけたまま、もう片方の耳でこちらの声を聞いている。


「あ、はい。佐伯です」


「桐山っす。よろしく。奥、指導教員室ね」


「あの、桐山さんは——」


「先輩、先輩。あと敬語もいいよ、そのうち」


桐山はそう言うと、片手をひらひらと振って自分の席に戻っていった。モニターには見覚えのないゲームの画面が映っている。研究の合間の休憩なのか、それとも今がまさに休憩中なのか、淳には判断がつかなかった。


素っ気ないような、それでいて悪意のない案内の仕方に、淳は少し肩の力が抜けるのを感じた。廊下を進むと、学生居室から次々に顔が覗く。


「新しい子?」長身の女性が、眼鏡の奥からちらりとこちらを見た。机の上には、ぎっしりと書き込まれた実験ノートが積まれている。「神崎です。試料合成と測定、あとで一通り教えるから。覚悟しといて」


「は、はい。よろしくお願いします」


淳が緊張気味に頭を下げると、神崎はふっと表情を緩めた。


「そんな怯えなくていいから」神崎は小さく笑って、ノートの表紙を軽く指で叩いた。「今日はまだ何もしないでしょ。指導教員室、行くよね?」


「あ、はい、そのつもりです」


「じゃあ、明日からよろしく」


「大久保です、どうも」がっしりした体格の男が、椅子に座り直しながら小さく会釈する。腰を下ろす拍子に「どっこいしょ」と呟いたのが、妙に耳に残った。歳のわりに、と思ったが、口には出さなかった。


「大久保さんは、何を研究されてるんですか」


「俺? 俺は……」大久保は少し考え込んでから、頭をかいた。「まあ、おいおい分かるよ。とりあえず、困ったことがあったら聞いてくれ。答えられるかは分からないけど」


要領を得ない返事だったけれど、その口調には嫌味も気取りもなかった。


「淳って呼んでいい? 佐伯くんだと他人行儀だし」神崎がふと言った。


「あ、はい、もちろんです」


「じゃあ淳くん。分からないことあったら、遠慮なく聞いてね。今日は名前覚えるだけで精一杯だと思うけど」


「本多です……よろしくお願いします」スーツ姿の男が、疲れた目のまま頭を下げた。就活の最中なのか、鞄には説明会の資料らしき冊子がのぞいている。「今日、これから面接で……すみません、先に失礼します」


「あ、頑張ってください」


本多は力なく笑って、逃げるように出ていった。残された空気の中で、もう一人、きっちりした身だしなみの男が手帳から目を上げた。


「よう」秋山は軽く片手を挙げた。「佐伯も、ここだったのか」


同じ学科の同期だった。講義で何度か同じ教室にいたことはあるが、話したことはそう多くない。それでも顔と名前くらいは、お互いに一致している間柄だ。


「秋山も、こっちだったんだ」


「うん、第一希望だったから」秋山は少し得意げに言うと、手帳を閉じた。中には、細かい字でびっしりとメモが書き込まれているのが見えた。「さっき部屋を回りながら聞いたんだけど、装置の予約は早いもの勝ちで、朝一で埋まることが多いらしい。あと、ゴミ出しは水曜と金曜、当番表は冷蔵庫の横」


「早いな、もう」


「最初が肝心だから。覚えることは早めに覚えといたほうが、後々楽だし」


それだけ言うと、秋山はまた手帳に視線を戻した。同期のはずなのに、なんだか随分としっかりした人だな、と淳は思った。


一気に名前を浴びせられて、淳はとても全部を覚えきれる気がしなかった。それでも、誰も新入りに気を遣いすぎず、無視もしない、ちょうどいい距離感だった。

お読みいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
理系の研究室の話と聞いてやってきました。 よろしくお願いします。
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