第23話 生と死の境目
ぐちゃり、ぐちゃり。
まるでトマトのような水気のある果実を潰すような音が聞こえてくる。
……僕はどうしたんだっけ。
そうだ、たしか遭難して流れ着いた無人島で水も食料も尽きてしまい、瑠璃と最後の瞬間まで手を繋いで眠ったんだった。
もう二度と目を覚まさないと覚悟したのだが、まだ体力が残っていたのだろうか?
痛いほどの空腹と声すら出せない渇きを感じない。
それどころか、遭難する前と同じくらい身体の調子がいい気がする。
目を開けると、隣で瑠璃が眠っていた。
しかし、周囲の景色が眠った時とは全く違う。
苦労して作った掘っ立て小屋ではなく、高い岩壁に覆われている。
上を見上げるとそこから日光が差し込んできており、それが明かりとなっていた。
……全く見覚えがない場所だ。
僕が周囲を見ている間も、何かが滴り落ちる音と噛み砕くような音がしている。
どうやら日光が照らしていない奥の方で音がしているようだ。
瑠璃は目を覚ます様子がない。
手を離して音を確認しに行くか、それとも危険がないようにここに留まるか。
考えていると、音が止まる。
そして奥からゆっくりと何かがこっちに歩いてきた。
差し込んできた光でその正体が露わになる。
虎だ。
それも信じられないくらい大きな虎が、口の周りを真っ赤に濡らしている。
ペロリと舌で口の周りを舐め取りながら僕たちへと近づく。
僕と瑠璃の前まで来ると、猫のように両手を前に揃えて座り込み、こっちをジッと見る。
観察しているようだ。
何を考えているのかは察しが付く。
この虎は人を食っている。
さっき食べていたのは、死んだスーザンだろう。
暗闇では見えにくいが、彼女の着ていた服が奥に見える。
こんな巨大な虎がこの島にいるなんて思わなかった。
瑠璃も言っていたが、大型の動物が生きていくのに必要なだけの食べ物がここにはないのだ。
虎は起きない瑠璃に視線を定め、再びゆっくりと近づいてくる。
口を開くと立派で鋭利な犬歯が見えた。
人間の頭なんて簡単に噛み砕きそうだ。
僕は虎と瑠璃の間に割って入り、彼女を庇うように両手を広げる。
これ以上は通さないという明確な意思表示だ。
もっとも、襲い掛かられたらあっという間に殺されるだろう。
でももしかしたら僕を食べてそれで満足するかもしれない。
無人島での生活で一度死を覚悟したからか、思ったよりも恐ろしくはなかった。
進路を邪魔された虎が僕の目を見る。
澄んだ金色の縞模様の目。
そういえば、パワーストーンでタイガーズアイなんてあったな……。
顔が目の前に寄ってくる。
虎の息遣いが肌で感じられるほどで、もし一瞬でも目を逸らせば間違いなくそのまま僕の顔を噛み砕くという確信があった。
どれくらいの間見つめ合っていただろう。
一瞬か。あるいは一生か。
虎はふいっと顔と体を逸らし、両手を前に出して猫のように大きく伸びをした。
それから僕たちに興味を失くしたかのように、再び暗闇の方へと戻っていく。
どうやら、生きている人間を食べる気はあまりないらしい。
先ほどまで捕食していたスーザンの死体を咥えて奥へと進む。
途中で一度だけ振り向いてきた。
虎の体は暗くて見えないが、金色の目だけが爛々と輝いている。
その目からはさっさと失せろと言っているような気がした。
僕はこれ以上立っていられず腰を抜かし、地面に座り込んだ。
何だったのだろう。
ここは結局どこなんだ?
疑問を考える暇もなく、急激に眩暈がしてきた。
とても耐えられず、気を失うようにして倒れ込む。
今度こそもうダメなのか――。
次に目を覚ますと、見えたのは知らない天井だった。
真っ白くて、電灯の光が優しい。
その優しい光さえ久しぶりだからかまぶしく感じる。
僕の周辺にはたくさんの機械が置かれ、そこから伸びた線が体のいたるところに取り付けられていた。
(???)
状況が判断できない。
体を動かそうとしたが、僕の意思に反して全く力が入らなかった。
まともに動くのは目蓋くらいのものだ。
眩しいせいか何度もまばたきしているのを、機械に表示された数字をメモしている白衣の男性が気付く。
「患者が意識を取り戻しました」
僕ではない誰かにそう告げた後、僕の顔の近くに移動してくる。
「やぁ。僕は神原健といって、オーストラリアで勤務している日本人の医者だ。意識を取り戻した時は同郷の者がいた方が、コミュニケーションがスムーズだと思って担当になった」
彼は医者らしい。
「柏原一輝君……で合っているかな? もし合っていたら瞬きを一回してくれ」
言われた通り、一度だけ瞬きをする。
「ありがとう。発見が遅れて衰弱が進んでいたが、意識が回復して何よりだ。発見時は極度の栄養失調と脱水症状が見られたが、点滴の投与もあって危機は脱している。十分休めば日常生活に復帰できるよ」
たしかに、体こそ動かせないもののそこまで苦しくはなかった。
僕たちは助かったのだろうか?
だとしたらなんとしても聞かなければならないことがある。
「ぁっ」
「無理に喋らない方がいい。喉を傷つけてしまう」
「あの、瑠璃は?」
「一緒にいた女の子のことだね。心配ない。彼女も君と一緒に救助されたよ。君より衰弱していたが、命に別条はないから安心してくれ。いやあ本当に君たちは強運だ。脱出艇の上で10日以上漂流したのに生還できるなんて」
「そう、ですか」
少し話しただけでどっと疲れた。
瑠璃も無事助かったという安堵がまず心に浮かぶ。
だが神原という医者はおかしなことを言っていた。
"僕と瑠璃が脱出艇の上で漂流していた"
僕たちは無人島に漂流したはずだ。
脱出艇なんて島についた時点でどこかに行ってしまっていたはず。
「今はとにかく休息が必要だ。色々な手続きはそれからにしよう」
神原という医者が立ち去ると同時に、僕も意識が保てず眠りに就く。
数々の疑問を心に抱きながら。




