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 夜明け前の王宮は死者の吐息のように冷え切っていた。

 私は自室の窓辺に立ち、紫紺から白磁へと移り変わる空を見つめていた。寝間着の上に羽織った薄いシルクのガウンが、微かな風に揺れる。昨夜、エグゼクティオに命じた「贈り物」が届くのを、私はただ静寂の中で待っていた。


 この帝国の貴族たちは、魔力の残滓を嗅ぎ分けることに長けている。

 もしエグゼクティオが力任せに父コルルプティオ公爵を屠れば、その魔力の衝突は王都中に響き渡り、即座に彼の犯行だと露見するだろう。だが、彼は「軍神」と称えられる一方で、影の仕事においても比類なき才を持っていた。

 彼は知っているのだ。愛する女のためなら、自らの手をどれほど汚すべきかを。


 不意に背後で空気が揺らいだ。

 鍵をかけたはずの扉が開く音もしない。ただ、夜の闇の一部が切り取られたかのように、そこに「彼」がいた。


「——ただいま戻りました、私の愛しい女王よ」


 エグゼクティオの声は、まるで甘美なセレナーデのように鼓膜を震わせる。

 振り返ると、彼は軍服の一部を赤黒く濡らし、片膝をついて跪いていた。その手には、精巧な装飾が施された銀の箱が捧持されている。箱の隙間から溢れ出すのは、高密度の魔力が霧散する際に放つ、独特の紫色の燐光。

 それは、コルルプティオ公爵が保持していた強大な魔力の結晶——すなわち、彼の「命」そのものの残滓だった。


「早かったわね、エグゼクティオ」

「君の願いを、一秒でも早く叶えたかった。……あの豚は、自分が何故死ぬのかさえ理解せぬまま、夢の中で果てましたよ。私がその喉を裂く間際、君の名を囁いてやりました。絶望に染まったあの顔を、君に見せてあげたかった」


 エグゼクティオは恍惚とした表情で、血の匂いが漂う銀の箱を差し出す。

 私はその箱に触れることなく、彼の銀髪を優しく撫でた。指先に付着した生温かい感触。それが、私たちが踏み出した修羅の道の第一歩だった。


「工作は?」

「完璧です。現場には元老院議員ペルフィディア侯爵の紋章が刻まれた暗殺短剣と、彼が秘匿していた禁忌の術式の痕跡を残してきました。今頃、公爵邸の従者たちが叫び声を上げているはずだ。『元老院が公爵を殺した!』とね」


 私は満足げに微笑んだ。

 これこそが、私の描いた絵図だ。

 父クレメンティアが守り抜こうとした「魔力保持者の保護」という暗黙の了解。それを、政敵である元老院自らが破ったという構図を作り上げる。

 コルルプティオ公爵は、元老院からすらも疎まれていた強欲な男だった。議員たちは、彼が消えたことを内心喜ぶだろう。だが、その死が「暗殺」という手段で行われたこと、そしてその罪が自分たちに着せられていることに、彼らはすぐさま戦慄することになる。それでいい。


 やがて、王都に朝を告げる鐘の音が響き渡った。

 しかし、その音はいつもとは違っていた。早鐘が打たれ、騎士たちの喧騒が遠くから聞こえてくる。


「さあ、お行きなさい、エグゼクティオ。悲劇の息子を演じる時間よ」

「はい。……ああ、ヴェネフィカ。次に会う時、君はあの広間で、怒りに震える正義の女王として君臨していてほしい。私はその足元で、最も忠実な凶器として牙を研いでおきましょう」


 彼は私の手の甲に、食らいつくような激しい口付けを残すと、陽光が差し込む直前に再び闇へと消えた。


 数時間後。

 王宮の大広間は、怒号と混乱に包まれていた。

 私は王冠を戴き、漆黒のドレスを纏って玉座に深く腰掛けていた。眼下には、動揺を隠しきれない三百の議員たちと、困惑する騎士たちの群れがある。


「静粛に!」


 私の凛とした声が広間に響き渡る。一瞬にして静寂が訪れた。

 私は震える手で、あらかじめ用意していた書状を叩きつけた。


「コルルプティオ公爵が暗殺された。それも、我が帝国の法が最も厳しく禁じている『魔力の強奪を伴う物理的な殺害』によってだ。現場からは、元老院議員の関与を示す明白な証拠が発見されたという。これはもはや、王家に対する明白な反逆であり、帝国の根幹を揺るがす蛮行であります」


 議員たちの顔が青ざめる。最前列にいたペルフィディア侯爵が、脂汗を流しながら前に出た。


「じょ、女王陛下! それは何かの間違いです! 我々元老院が、公爵を殺す理由など……!」

「理由など関係ありません。証拠があると言っているのです」


 私は敢えて激昂してみせた。父が見せることのなかった、激情の王女の姿を。

 そこへ、広間の扉が荒々しく開け放たれた。

 現れたのは、全身に返り血を浴びた——その多くは演出によるものだが——エグゼクティオだった。彼の背後には、コルルプティオ公爵家直属の騎士団「第十騎士師団」が、抜身の剣を手に整列している。


「女王陛下……! 父を、父を殺めた者たちに、鉄槌を!」


 エグゼクティオは私の前に崩れ落ち、悲痛な叫びを上げた。その演技は、同席した誰もが涙を誘われるほど完璧なものだった。

 公爵家の私兵たちは、主君の非業の死と、若き新当主の涙を目の当たりにし、復讐の炎に燃え上がっていた。数多の戦場を生き抜いてきた精鋭……彼らの瞳には、もはや法も秩序もない。あるのは、自分たちの主を奪った者たちへの、剥き出しの殺意だけだ。


 私はエグゼクティオの肩にそっと手を置いた。


「安心なさい、エグゼクティオ公爵。私は、この帝国の正義を正すことを誓います。……今日、この時を以て、私は『緊急王命』を発動します」


 その言葉に、議員たちの間に激震が走る。緊急王命——それは、平時において王権を制限する法をすべて停止し、女王に絶対的な独裁権を与える禁じ手だ。


「公爵殺害の容疑が晴れるまで、元老院議員全員を自宅謹慎、および魔力の行使をします。また、近衛騎士団千五百名の中で、公爵家と対立していた派閥の者たちを一時拘束しなさい。調査は、エグゼクティオ公爵率いる騎士団に一任します!」


「な、なんと……! そのような暴挙、許されるはずが……!」

「黙れ、ペルフィディア! お前の屋敷から暗殺者の指紋が出たのだ。言い逃れはさせない!」


 エグゼクティオが立ち上がり、氷のような眼差しでペルフィディアを射抜く。

 彼は懐から、血塗られたリストを取り出した。それは、昨夜私たちが蜜月の間に作り上げた「処刑者リスト」の第一葉だった。


「陛下より賜ったこの剣……まずは貴公から、その罪を贖ってもらおうか」


 エグゼクティオの合図と共に、公爵家の騎士たちが議員たちを取り囲む。

 広間は阿鼻叫喚の地獄へと変わった。抗議する者、逃げ出そうとする者、あるいは絶望して膝をつく者。

 私はそれを、玉座から冷ややかに見下ろしていた。


 暗殺という「野蛮な行為」を避けてきたこの国で、初めて行われる大量粛清。

 国力は下がるだろう。魔力保持者は減るだろう。

 だが、それでいい。

 私の言うことを聞かない有能な部下など、無能な死体よりも価値がない。いずれ訪れるべき時を、早めたに過ぎない。


 連行されていく議員たちを見送り、最後に広間に残ったのは、私と、そして血の剣を下げたエグゼクティオだけだった。

 彼は静かに階段を上り、私の足元へ腰を下ろした。血の匂いが、私のガウンに染み付く。


「……まずは一人目です、ヴェネフィカ。ペルフィディア侯爵は、明日までには獄中で『自責の念に駆られ自害』するでしょう」

「ンフフ♪ 自害……手際がいいわね、エグゼクティオ。残りの百九十九人と、千五百の騎士たち。彼らを消し去るまで、休む暇はないわよ?」

「休みなど不要だ。君の敵を一人殺すたびに、私の心は愛の悦びに満たされる」


 エグゼクティオは私の膝に頭を預け、猫のように甘えた声を出す。

 その赤い瞳には、これから始まる凄惨な虐殺への恐怖など微塵もなく、ただ私への純粋で、歪んだ情熱だけが揺らめいていた。


「ヴェネフィカ。すべてが終わった時、この玉座には君だけが残る。君を縛る法も、君を侮る臣下もいない。ただ、私という名の奴隷だけを、君の傍らに置いてくれるかい?」

「ええ。約束するわ。……その代わり、誰一人として逃さないで。どこまでも追うのよ。私を虐げたあの騎士たちも、母を死に追いやったあの議員たちも。全員の絶望を、私に捧げなさい」


 私は彼の顎を掬い上げ、血の匂いがするその唇に、深く、冷たい契約の口付けを落とした。

 窓の外では、さらに激しく雨が降り始めていた。

 それは、これから流される膨大な血を洗い流すには、あまりにも不十分な無慈悲な雨だった。

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