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寛容の終焉

 重苦しい弔鐘の音が、鉛色の空から降り注ぐ冷たい雨に溶けていく。

 豪奢な大聖堂の冷たい石床に響くのは、黒衣に身を包んだ貴族たちの、これ見よがしなすすり泣きと、その裏に隠された醜悪な舌打ちの交響曲だった。

 祭壇の中心、純白の百合に埋もれて眠る男——私の父であり、この聖遺帝国を統べていた王、クレメンティアノス。その死に顔は、生前と変わらず、ひどく穏やかで、そしてどうしようもなく愚鈍であった。


「……ああ、なんと痛ましい。我らが慈悲深き王よ」


 最前列で大仰に涙を拭うのは、元老院の重鎮であるペルフィディア侯爵だ。その丸みを帯びた背中を見つめながら、私は喪服のヴェールの上から、そっと自分の唇を噛み締めた。血の味が滲む。その痛みが、私を辛うじて正気につなぎ止めていた。


 この国において、命を奪う「暗殺」という行為は、歴史的に見て決して常套手段ではなかった。

 我々貴族の血には強大な魔力が宿っており、その魔力総量こそが国力そのものであったからだ。政敵であろうと、有能な魔力保持者を殺害することは、そのまま帝国の弱体化を意味する。故に、権力闘争の果てには常に「魔力の譲渡」や、絶対的な「隷属の契約」が結ばれるのが常だった。法と契約の縛りによって相手を無力化し、生かしたまま搾取する。それがこの国の洗練された、しかし陰湿極まりない政治の在り方である。


 だが、父クレメンティアは違った。

 彼はその名の通り、底なしの「寛容」を掲げた。自らに刃を向けた反逆者でさえ、契約による魔力搾取を行わず、「共に国を良くしよう」と微笑んで許し、あろうことか要職に就かせたのだ。

 父はそれを、和解による真の国力増強だと信じて疑わなかった。

 結果として何が起きたか。

 許された者たちは父の慈悲を「与しやすい愚かさ」と嘲笑い、国の内政は腐敗の極みに達した。元老院を牛耳る二百人の議員たちは賄賂と横領に手を染め、国の剣であるはずの千五百の騎士たちは、もはや彼らの私兵と成り果てていた。


 その皺寄せを最も受けたのは、他でもない私だ。

 私がまだ幼い頃、母である王妃アエグリトゥードは、心労と原因不明の病によってこの世を去った。母の死後、後ろ盾を失った「ただの王女」である私に、彼らがどのような目を向けたか。

 冷遇、侮蔑、いわれのない悪評の流布。すれ違いざまに吐き捨てられる嘲笑。私がどれほど学を修め、国の未来を憂いて正しい法案を提案しようとも、二百の議員たちは鼻で笑い、千五百の騎士たちは私の護衛をあからさまに放棄した。

 彼らにとって、私は父の「寛容」という名の無能さを象徴する、格好のサンドバッグでしかなかったのだ。


 ——だが、それも今日で終わる。


 父の棺が地下の霊廟へと納められ、偽りの弔問客たちが去った後の、深夜の王座の間。

 たった一人残された私は、冷え切った玉座の肘掛けを静かに撫でた。明日には、私がこの玉座に座る。女王ヴェネフィカとして。

 政敵たちは、私をお飾りの女王として据え、都合の良い傀儡にする算段でいるだろう。法や言葉で彼らを排除することは不可能だ。父が許し、肥え太らせた彼らの権力は、すでに王家のそれを凌駕しつつある。


「……お父様。あなたの愛した寛容は、国を内側から腐らせる猛毒でした」


 誰もいない薄闇の中、父の肖像画に向かって、私は独り言を漏らす。

 法で裁けないのなら。言葉が届かないのなら。

 父が忌み嫌い、この国が避けてきた「国力の低下」という禁忌を犯すしかない。魔力の喪失など知ったことではない。このままでは、国そのものが腐り落ちるのだから。

 私は彼らを許さない。絶対に。

 私の心を支配していたのは、女王としての使命感以上に、私と母を虐げてきた者たちへの、どす黒く煮え滾るような復讐心だった。


「——その美しい瞳に、これ以上相応しくない悲哀を宿すのはおやめください、私の女王」


 不意に影が動いた。

 足音すらなかった。王座の間の厚いタペストリーの裏から、一人の男が静かに歩み出てくる。

 闇夜に溶けるような漆黒の軍服。銀糸のような白髪の間から覗く、血のように赤い双眸。

 若き公爵であり、帝国の北の国境を一人で守り抜いたと謳われる冷酷無比な軍人、エグゼクティオ。

 彼は玉座の階段を登ると、私の足元に流麗な動作で跪き、私の冷たい指先を取って、狂信者のような熱情を込めて口付けを落とした。


「エグゼクティオ……。夜這いには少し早い時間ではなくて?」

「あなたがお望みとあらば、昼夜を問わず駆けつけるのが私の役目です。……ああ、ヴェネフィカ。今日もあなたは、恐ろしいほどに美しい」


 彼の赤い瞳が、熱を帯びて私を見上げる。

 エグゼクティオは、狂っている。私という存在に対して、常軌を逸した執着と愛情を抱いているのだ。『理由は知らない』。だが、この圧倒的な暴力と才覚を持つ男が、私の足元で忠犬のように尾を振っているという事実は、今の私にとって唯一にして最大の武器だった。


 私は彼を見下ろしながら、あらかじめ用意していた甘く、そして残酷な罠の口火を切った。


「私のこと愛してる?」


 鈴を転がすような、あどけない少女の声音を作って私は問うた。

 エグゼクティオの瞳孔が、微かに、しかし確かに開く。


「勿論さ」

「どれくらい?」

「君のためなら何でもしてやるさ。この命も、魂も、魔力も。すべては君の足元に敷かれる絨毯に過ぎない」


 躊躇いのない、陶酔しきった声。彼の吐息が私の指先にかかり、ゾクッとするような熱が伝わってくる。


「嬉しい!」


 私は心からの歓喜を装って微笑み、空いた方の手で彼の冷たい頬を優しく撫でた。彼が甘えるように目を細め、私の手に頬を擦り寄せる。


「だったら一つだけお願いがあるの」

「何でも言ってくれ。星を落とせというのなら天を穿とう。海を枯らせというのなら灼熱の陣を敷こう」

「実はね……」


 私は身を乗り出し、彼の耳元へと顔を近づけた。

 甘い香水の匂いと、私の隠し切れない殺意の匂いが混ざり合う。私は彼の耳に唇が触れるか触れないかの距離で、一言一句、はっきりとその「お願い」を囁いた。


「——あなたの実父である、コルルプティオ公爵を暗殺してほしいの」


 一瞬、王座の間に静寂が落ちた。

 実の父親を殺せ。そのあまりにも非道な要求に、普通であれば顔を青ざめさせ、私を狂人だと罵るだろう。

 しかし、ゆっくりと顔を上げたエグゼクティオの表情に浮かんでいたのは、困惑でも怒りでもなく、極上の美酒を差し出されたような、歓喜の笑みだった。


「……私の父を。なるほど、あの腐え切った豚を。しかし、ヴェネフィカ。あれでも腐っても公爵だ。単に殺せば、私腹を肥やして作り上げた一万の私兵たちが黙っていない」

「ええ、だから上手くやるのよ。政敵である元老院の息がかかった暗殺者の仕業だと」


 私は冷たく微笑み、言葉を続ける。


「当主を『卑劣な手段』で暗殺された私兵たちは、悲嘆に暮れ、怒りに狂うわ。あなたはそこへ、悲劇の跡継ぎとして君臨するの。涙を流し、父の無念を晴らすと誓って。忠誠と復讐心で縛り上げられた一万の精鋭……それこそが、私たちの『剣』になる」

「素晴らしい……。ああ、何という甘美な毒だ、君は。だが、その剣を誰に向ける?」

「決まっているでしょう」


 私は玉座から立ち上がり、窓の外、雨に煙る王都を見下ろした。

 あの闇の中に、私を嘲笑った二百の議員の屋敷が、私を見捨てた千五百の騎士たちの兵舎がある。


「私を泣かせた者たちよ。腐敗した元老議員二百人。そして、彼らに付き従う千五百の騎士。一人残らず、跡形もなく、法も契約も無視して、物理的に『排除』してちょうだい。私の新政は、彼らの血の雨から始まるの」


 振り返ると、エグゼクティオは立ち上がり、胸に手を当てて深く、深く一礼した。

 その口元には、これ以上ないほど凶悪で、そして純粋な愛に満ちた笑みが刻まれている。


「御せのままに、我が愛しのヴェネフィカ王女。君の涙の数だけ、彼らの血をこの玉座の前に捧げよう。まずは私の父の首を、我らの愛の門出の祝いとして」


 こうして聖遺帝国の歴史上、最も血塗られた、そして最も甘美な狂愛の歴史が幕を開けた。

 私はもはや、無力な王女ではない。国を救うためならば、自ら猛毒を飲み干し、愛という名の狂気を御する、魔女ヴェネフィカになるのだ。

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