第2話 ドッジ不況、朝鮮特需
昭和24年頃。日本経済は、深刻なインフレに苦しんでいた。
食料も物資も不足し、物価は高騰する一方だった。
これを抑え込むため、アメリカ主導で実施された財政・金融の引き締め政策は、かえって景気を冷え込ませ、
企業倒産や失業が相次ぐ「ドッジ不況」を招いた。
奥野鋳物も、その影響を免れることはできず、再び業績悪化に苦しむことになる。
だが――昭和25年6月。朝鮮戦争の勃発が、状況を一変させた。
米軍を主体とする国連軍は、毛布や衣類、トラック、有刺鉄線、さらには航空機用燃料タンクや部品など、
膨大な軍需物資を日本国内で調達し始めた。
いわゆる「朝鮮特需」である。
奥野は、戦時中に戦闘機のエンジン部品を手がけた経験、さらに、復員してきた職人の中に、
ラバウル基地など各地の航空基地で整備を経験したベテラン整備士がいることに着目した。
こうして奥野鋳物は、航空機エンジン部品の製造へ本格的に舵を切る。
1953年7月。
朝鮮半島で休戦協定が結ばれるまでの3年間。この特需を通じて、日本経済は、
戦前を上回る勢いで回復していった。
やがて――高度経済成長期。
1975年。
奥野鋳物は社名を「奥野工業株式会社」と改める。
防衛庁航空部の指名業者となり、航空自衛隊・百里基地に配備された米国マクダネル社製
ファントム偵察機のエンジン部品や主脚支柱を、防衛施設庁(のちの防衛装備庁)経由で
納入するまでに成長していた。
小さな鍛冶屋から始まった工場は、戦争と復興をくぐり抜け、いつしか――日本の空を支える企業へと姿を変えていた。
奥野社長と宇野の夢――職人の技と、家族の時間―――
奥野工業株式会社の本社は、創業以来変わらず、東京・蒲田の工場に置かれていた。
ここでは、経理と米国製エンジンの英語仕様書の翻訳を担当する宇野を中心に、事務員4人、設計の専門職5人、
砂型製作の職人10人が働いていた。
精密さが要求される鋳造では、砂型を作るための木型を、今も熟練の木型職人が、
ノミと鉋を使い、一つひとつ手作業で仕上げている。
その長い工期こそが、正確な鋳物を支えていた。
本社で試作品を設計・鋳造し、精度試験を繰り返したのち、防衛庁航空部の試験施設で、
担当官立ち会いのもと、各種テストが行われる。
そこで合格したものだけが「完成品」として認められ、新設した埼玉工場で量産される仕組みだ。
埼玉工場では、60人余りの社員が働いていた。
宇野は、かつては自転車で通勤していたが、右足の不自由さもあり、今では小型車で通っている。
結婚当初、日本語の読み書きがほとんどできなかった妻・早苗は、宇野が毎晩1時間ずつ
教え続けた結果、3年もすると漢字もカタカナもすらすら読めるようになった。
その後、時間を持て余していた奥野の妻・静江に誘われ、2人で看護婦養成学校へ通い始め、
2人共、4年がかりで資格を取得した。
現在、早苗は近所の病院で昼間だけ働き、夜は家事と家族の看護にあたっている。
静江は、本社の職人たちの食事を作りながら、時折、老人ホームで看護婦として
ボランティア活動も続けていた。
4月生まれの千鶴は、15歳。中学3年生。
成績優秀で、母譲りの美しさを持ち、父の胸の痛みや古傷を気遣う、心優しい娘に育っていた。
千鶴の夢は、世界中の空を飛び回る国際線のスチュワーデスになること。
幼い頃から慕ってきた「清お兄ちゃん」が、将来パイロットになると知ったことが、
大きな影響を与えていた。
――――――――――――― 次回予告――――――――――――――
奥野工業に、海外からの声が届く。
物語は、国内から海外へ――静かに、しかし確実に広がっていく。
外企業・国際取引、技術と倫理の衝突、戦争を知る世代と、知らない世代
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