第6話 宇野家の日常と早苗の決意
宇野は、右足に後遺症を抱えていたため、当時としては珍しく、自転車で通勤していた。
片肺での仕事は、決して楽ではない。
だが、11歳年下の早苗は、妻として、母として、そして――夫を支える“看護役”として
懸命に生きていた。
夜。息が詰まるように苦しそうな夫の背を、早苗は、そっと撫でる。
寒い夜には、胸に残る古傷へ蒸しタオルを当てる。
言葉は少なくとも、その手の温もりだけで、宇野は救われていた。
だが――早苗の胸には、ひとつだけ、どうしても消えない悔しさがあった。
日本語の本が、読めない。
病気の本も、医学書も、漢字が壁となり、理解できない。
(私は…… 何の役にも立っていない……)そう感じる夜が、何度もあった。
ある晩。早苗は、意を決し、宇野の前で深く頭を下げた。
「……私に、 日本語を教えてください」
宇野は、驚いて言った。
「生活で困ることは、 ないだろう?」
早苗は、静かに首を振った。「千鶴が、 学校へ行くようになったら…… 宿題を聞かれても、
答えられない母親で、いたくないんです」
その一言に、宇野の胸は、熱くなった。
守られるだけではなく、守る側になろうとする覚悟。
それは、早苗が母として生きると決めた、確かな瞬間だった。
宇野は、しばらく黙って考えたあと、ふっと微笑んだ。
「……わかった。 明日から毎晩一時間、 私が先生だ」
早苗は、驚いたように顔を上げ、そして深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。 千鶴のために、頑張ります」
―――――――――――――――― 次回予告―――――――――――――
母としての覚悟。
文字を学ぶことは、世界を取り戻すこと。
そして――早苗は、「知らなければならない過去」へと、少しずつ踏み出していく。
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