第3話 時が巻き戻り、10年の闇が繋がる
静江の貸した着物を着て、薄化粧をした早苗は、昨夜の濡れ鼠の姿とは、まるで別人だった。
愁いを帯びた、美しい顔立ち。だが、その瞳の奥には、まだ深い影が宿っている。
夕刻。
冷え込みが強くなり、皆で鍋を囲むことになった。
斎藤も、その座に加わった。
斎藤は、できるだけ彼女を見ないようにしていた。だが――早苗は、じっと彼を見つめていた。
やがて、静かに唇を開いた。
「斎藤中尉さん…… あの時は…… チョングメ カムサムニダ」
(本当に、ありがとうございました)
そう言って、深く、頭を下げた。
奥野夫婦は言葉を失い、顔を見合わせる。
「えっ……? 知り合いなの? どういうこと……?」
その瞬間。斎藤の脳裏に、10年前の光景が、鮮明によみがえった。
古舘村。第101部隊。崎山上等兵。そして――怯えた瞳をした、幼い朝鮮人の少女。
12歳の、李一家の末娘。
あの夜、斎藤が必死に守った少女。軍靴の影に震えていた、あの目。
それが今、目の前に座っている――早苗だった。
斎藤は、ようやく理解した。あれから、10年が過ぎていたのだ。
終戦後。13歳の早苗は、久留米の第三国人保護施設へ移された。
そこで1年を過ごし、朝鮮人仲間が営む闇市の雑炊屋台を手伝った。
4年後。18歳になった彼女は、大阪・鶴橋駅近くの焼肉店で働いていた。
その頃、大阪に出張で来ていた業界紙記者・菅野修二に見初められ、結婚を前提に付き合い始める。
1年後、上京。菅野のアパートで同棲。
やがて――妊娠を告げた途端、すべてが変わった。
「朝鮮人の子供を 持てるはずがないだろう!」
殴る。蹴る。
それでも早苗は言った。「あなたの子供を産みたい」
菅野は、「勝手にしろ」そう言い残し、アパートを出ていった。それきり、戻ることはなかった。
話を聞くあいだ、奥野夫婦は何度も涙をぬぐった。
斎藤の胸にも、抑えきれない慚愧が込み上げる。
戦争が奪ったもの。人としての尊厳。その責めを、誰が背負うのか――言葉は、出なかった。
結局、早苗は当分のあいだ、奥野家で暮らすことになった。
6人の職人たちの昼食と夕食を作り、作業服を洗い、静江を手伝う。
そこに、ほんの少しずつ――安心と温もりが戻り始めていた。
―――――――――――― 次回予告――――――――――
10年の時を越え、封じられていた真実が、静かに繋がる。
助けた少女は、再び斎藤の前に現れた。
そして――彼の戦争は、まだ終わっていなかった。
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