第21話 玉音放送と「秘密部隊」の迷走
昭和20年7月26日。
連合国(米・英・中)は、日本に対し「無条件降伏」 を求めるポツダム宣言を突きつけた。
日本政府はなお、日ソ中立条約を頼みに、ソ連を通じた和平工作に望みをつないでいた。
だが――8月6日、広島の原爆。8月8日、ソ連参戦。8月9日、長崎の原爆。
そして8月14日。 御前会議において、昭和天皇の「聖断」により、ポツダム宣言の受諾が決定された。
翌15日正午。
ラジオから流れた 「終戦の詔書(玉音放送)」 は、日本中を静寂で包んだ。
多くの国民は安堵した。――これで空襲が終わる。これで、死なずに済む。
しかし、軍の内部は違った。
「これから、我々はどうなるのか」、「最後まで戦うべきではないのか」
不安と強硬論が入り混じり、混乱は極みに達していた。
命令が、一日ごとに変わる
玉音放送直後、大本営は各部隊にこう命じた。「別途命令あるまで、現任務を続行せよ」
翌16日には、「自衛のため以外の戦闘行動を停止せよ」
さらに18日、
・「全面的戦闘行動の停止は、別途指定する日時以降に行うべし」
そして19日。
第1総軍・第2総軍・航空総軍に対し、・「8月22日午前零時以降、全面的な戦闘行動を停止せよ」
命令は、日ごとに変わった。現場の兵士たちは、判断の拠り所を失っていく。
外地派遣軍は、さらに混乱していた
混乱は本土だけではなかった。外地では、戦闘停止命令が届かない。部隊長が命令を無視する。 といった事態が相次ぎ、中国大陸や北方戦線では、8月末まで戦闘が続いた。
南方の島々では、終戦を知らぬままジャングルに留まり続けた兵士たちが、後に 「残留兵」 として知られることになる。
古舘村の山奥に潜む 「101部隊」 も、例外ではなかった。 有能な情報将校ですら錯綜する情報に翻弄され、部隊長・山曽根中佐も、部下たちの問いに 明確な答えを返せずにいた。
本来、広島に置かれていた第2総軍司令部は原爆で壊滅。
司令部機能は福岡県・二日市へ移されていた。
山曽根は、西村少佐らと協議のうえ、陸軍士官学校時代の同期であり、 第2総軍司令部副参謀を務める 三塚大佐を訪ねた。
「101部隊は、この先、どうなるのか」それを確かめるためだった。
「証拠は、消しておけ」
数日後。二日市の第2総軍司令部で、山曽根は三塚と面会する。
三塚は、101部隊の存在自体をほとんど知らなかった。
だが説明を聞くうち、満洲の 「731部隊」 との関係に気づき、表情を変える。
そして、占領軍――GHQの方針を簡潔に伝えたうえで、こう言った。
「GHQが101部隊の存在を知れば、調査は避けられない。「その前に……戦争犯罪として 不利になる証拠は、処分しておくことだ」
それは忠告であり、同時に “黙認” でもあった。
101部隊「解体計画」
古舘村へ戻った山曽根は、西村少佐と2日間にわたり密議を重ねた。
決まった方針は、次の通りだった。
① 施設の完全消去
爆破は避け、トンネル入口・換気口すべてをコンクリートで封鎖。
② 化学兵器の廃棄
鬼火谷の祠そばの空井戸に毒ガス兵器一式を投棄。
③ 証拠書類の焼却
研究資料・人体実験記録をすべて焼却。
④ 囚人の処遇
中国人・朝鮮人囚人23名。毒殺案も浮上するが、結論は持ち越し。
⑤ 資金確保
秘匿していた金・銀・宝石を売却。
⑥ 工事人夫への口止め
徳島から動員した40名に口止め料と脅し。
⑦ 村民への口止め
村長・津田に一任。
⑧ 解散時期
命令が定まるまで、静観。
「軍需物資」売却作戦
8月下旬。
天野少尉と崎山上等兵は、金塊・銀塊・宝石を抱え、久留米の酒蔵、大地主、遊郭主を回った。
半ば強制的な買い取り。3日で集まった現金は 120万円余り。(現在価値で約 12億円)
その夜、2人は遊郭で祝杯をあげた。
芸者の一人が、何気なく漏らす。
「この前、四日市の司令部のお偉方がね……B29の捕虜を九州帝国大学で、生きたまま 解剖したって話してたわよ。進駐軍に知られたら、マズイって……」
2人は笑い飛ばした。まだ、自分たちは大丈夫だと。
だが――闇は、すでに彼らの足元まで迫っていた。
―――――――――――― 次回予告―――――――――――――
終戦は、すべてを終わらせたのか。
それとも――「罪」を闇に沈めただけだったのか。




