第10話 2人だけの結婚式
その夜、千鶴は桜井のマンションに泊まり、ささやかなスパークリングワインで
2人だけの「結婚式」を挙げた。
「じゃあ……新郎、新婦、乾杯!」
カチン――グラスが触れ合う、軽やかな音。
窓の外には、いつもと変わらないはずの東京の夜景が、どこか遠く、静かに広がっていた。
「これから、よろしくお願いします」、「こちらこそ、よろしくお願いします」
形式ばった言葉なのに、なぜか胸の奥に、深く染み込んでいく。
互いのグラスを見つめ、少し照れくさそうに微笑み合う。
それだけで、不安も、迷いも、すべてが溶けていくようだった。
翌12日の早朝から、2人はマンションの片づけに追われた。
最低限の整理を、午前中いっぱいで終え、午後はひたすら旅支度に集中する。
行き先は、地中海に浮かぶ マルタ共和国・マルタ島。
首都バレッタの外れで、雨宮の叔父が、小さなホテルを営んでいる。
かつて桜井は、雨宮とともにその地を訪れたことがあった。
道場を兼ねた広間で、現地の子どもたちに空手の模範試合を披露した、あの日。
試合後、大きな手で肩を叩きながら、豪快に笑って言われた言葉がある。
「いつでも仕事がなくなったら、うちに来い!」冗談のように聞こえたその言葉が、
今、現実になろうとしていた。
2人は、過去から逃げるためではなく、未来を生きるために――その島へ向かう。
8月13日、成田空港。
2人を見送るため、思いがけない人物たちが集まっていた。
それは、別れの場であり、同時に――新たな物語の「出発点」だった。
成田空港・門出の朝
8月13日。
お盆休みの成田空港は、家族連れや旅行客でごった返していた。
チェックインカウンターへ向かうと、見慣れた旅行会社の女性スタッフが、にこやかに立っていた。
「桜井主任、ご結婚おめでとうございます」チケットの封筒とともに、紙袋を2つ差し出す。
「主任の大好物、アナゴ弁当です。それから奥様には、イクラ弁当を」
「いつも悪いね」
そのとき――背後から、懐かしい声が飛んできた。「おーい。間に合ったか」
振り向くと、雨宮と、警視庁の大岩が立っていた。
「今日は公安抜き。完全に“個人の友人”として来た」大岩は、新聞紙に包んだ瓶を差し出す。
「マルタでも、日本酒が恋しくなったら飲んでくれ。“祝い”って銘柄だ」
雨宮は、少し照れくさそうにCDケースを2枚差し出した。
「道場で流してた曲と、大山総裁の『極真の誓い』だ」
3人は、自然と正面に立つ。「……押忍!」腹の底から響く、3つの声。
その声を背中に受けながら、桜井と千鶴は、ゆっくりと出国ゲートへ向かった。
―――――――――次回予告――――――――
空の上から見下ろす、日本列島。
千鶴が、胸の奥で告げた“最後の言葉”とは――
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