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青い霧  作者: 田中元一


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第9話 退職、そして婚姻届

成田空港。

乗員事務所の玄関先で、腕を組んだ雨宮チーフが待っていた。

「来たな」

「雨宮さん……」

「真一から電話があってな。大体の事情は聞いた」そう言って、目元だけで、ほんの少し笑う。

「部長のところに行こう。一緒に頭を下げる。それくらいは、上司の役目だ」

事情を聞き終えた客室乗員部長は、しばらく黙り込んだまま、窓の外を見つめていた。

やがて、低く、しかしはっきりと口を開く。「……本当に、残念だ!」

その言葉には、偽りのない感情がこもっていた。

そして、ゆっくりと続ける。

「空の仕事は、名刺の肩書きじゃない。人間として、何を選び、どう生きるかで決まる」

一拍置き、千鶴をまっすぐに見て言う。「君が考え抜いた末の結論なら、私は、それを尊重したい」

千鶴は、深く頭を下げた。その背中を、雨宮は何も言わずに見守っていた。

その日の午後。

2人は、区役所の窓口に並んでいた。

書類を確認していた職員が、淡々と問いかける。

「……新婦は、“李 千鶴(り・ちづる)”さんでよろしいですね?」

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。一瞬だけ、息を整え、それでも視線を逸らさず、千鶴は答えた。

「はい。間違いありません」

「それでは、受理いたしました。ご結婚、おめでとうございます」

窓口を離れたあと、桜井が、小さな声で囁く。

「……これで、正式に“桜井 千鶴”だな」

「うん……」

千鶴は、少し照れたように笑い、そっと彼の腕に、自分の腕を絡ませた。

名を変え、仕事を降り、それでも――選んだ人生。

二人の足取りは、静かだが、迷いはなかった。    

次に向かったのは、桜井の実家。そこで待っていたのは――家族という、最後の関門。

受け入れられるのか。それとも――。

居間に、重い沈黙が落ちていた。

「……真一、本気なのか?」父の問いに、桜井は一歩も退かず、まっすぐに答えた。

「はい。本気です」

「向こうでの仕事は?言葉はどうする?」

「マルタ島でホテルを営む知人がいます。住み込みで雇ってくださることになりました。

千鶴は、英語に加えてスペイン語とイタリア語も話せます」

父は腕を組み、黙り込んだ。

その横で、母はハンカチを強く握りしめ、やがて、ぽろりと涙をこぼした。

「……寂しくなるわね。でも、2人で決めたことなら……」言葉の最後は、声にならなかった。

そのとき――沈黙を破るように、弟がバン、と膝を叩いた。

「兄貴、心配するな。両親のことは、俺と妹でちゃんと面倒みる」

一拍置いて、にやりと笑う。「その代わり――車とマンションは、ありがたく引き継ぐけどな」

「ちゃっかりしてるな!」思わず桜井が突っ込む。

居間に、久しぶりの笑い声が広がった。

その瞬間、張りつめていた何かが、ふっとほどけた。

桜井は家族に、多くを語らなかった。

結婚すること。海外で、新しい人生を始めること。それだけを、静かに伝えた。

事件の真相も、宇野からの手紙も、胸の奥深くにしまい込んだまま。

――ただ一人。

雨宮だけには、すべてを打ち明けていた。

そして。2人の旅立ちの地は、地中海に浮かぶ小さな島国――マルタ島に決まった。

過去から、最も遠い場所へ。

それでも、未来からは、決して逃げないために。


―――――――――次回予告―――――――

将来有望視されていた2人は空の仕事に別れを告げた。

それは千鶴の運命を受け入れて、彼女を守り抜くという

桜井真一の夫としての信念でもあった。

―――――――――――――――――――――――


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