第41話 まだ見ぬ明日へ
「たまには、一緒に酒でもいかがです?」
目の前には、漆黒の狼がいた。エーリッヒの問いかけに答えることなく、それは人の形を成した。
そして、一言。
「喜んで」
シーグルズルはおどけた様子でドイツ語で答えたのであった。
「アヤは昼間出掛けて疲れて寝ています。常和殿はどちらに?」
「その辺の山を偵察に行くと言っていた。狼がいないか見に行ったようだが……もうこの辺りにも仲間はいないようだな、悲しいことだ」
狼は狂犬病に罹っていることも多く、日本では懸賞金を出されて狩り尽くされたと聞いていた。悲しいことだ。エーリッヒはこの気高き生き物の野生の姿を一目見てみたいと思っていたが、なかなか難しそうであった。
急ぎ、酒器と酒の肴を準備してもらう。
「冷酒の方が慣れていらっしゃいますよね?」
「ああ、燗の酒は経験がない」
「まあ、いずれ熱燗も。とりあえず今回は冷やで」
涼やかな盃に注いだのは、ほのかに黄色っぽくにごる地酒だ。
「清開、という酒です。杉並木の向こうの宿場町にこの酒蔵があります」
静かに乾杯し、舐めるように口にする。エーリッヒは辛口でありながらも甘み、旨味に富み、かつさらりと飲みやすいこの酒をことのほか好いていた。
「美味だ」
「お口にあったようなら、何よりです」
エーリッヒが彼を見ると、見事に互いの青い視線が交わった。
「何か……あるんですね」
「言えない」
「わかりました、それだけで十分です」
エーリッヒは夢で何度も見た綾子を思い出していた。彼女は、「エーリッヒさま、お待ちしています。必ず戻ってきてください」と言っていた。ああ、ついにきてしまったかと盃を傾ける。
ふたりは静かに酒を酌み交わした。つついているのは、日光名物の湯波だ。
「これも美味いな」
「揚巻湯波といいます。この辺の家庭料理です」
巻かれたてカットされ、切り株のような状態で揚げた湯波を煮たものだ。薄口醤油を使用しているのか味はさほど濃くなく甘めで、噛めばじゅわりと煮汁が口の中に広がる。
ふとシーグルズルを見れば、彼は器用に箸を使いこなしていた。
「どこで箸を習ったんです?」
「そなたに憑依しているからか、大抵のことはわかる。ゆえにこの国の言葉も造作ない」
なるほど、とエーリッヒは口元に笑みをにじませた。
静かな酒盛りは、それからしばらくつづいた。話題はたわいのないもので、父親とこのように穏やかに酒を酌み交わし談笑したことのないエーリッヒには少々新鮮な体験であった。
エーリッヒが毎夜狼の姿になってしまうのは、シーグルズルの推測によると先祖返りらしい。彼の妹の血が濃く出ているので、分け与えられた力と共鳴してしまっているようだ。
ゆえに、シーグルズルと顔も似ているらしい。
彼に心のどこかで理想の父親を求めているエーリッヒがいた。
「そういえば、常和殿とは進展したんですか?」
「一緒になろうと約束した。だから頼んだぞ、おぬしらも末永く共にいてほしい」
「言われなくとも。祝いの言葉を、述べさせていただいても?」
ふたりは互いにくすぐったいような笑みを浮かべると、再度どちらからともなく乾杯したのであった。エーリッヒは「おめでとうございます」と静かに祝福を口にした。
***
翌朝。
綾子は日課であるエスとの散歩をしていた。もちろん、エーリッヒも一緒だ。河原でエスは水に飛び込み、跳ね飛ばした水飛沫で綾子もエーリッヒも着物を濡らしてしまった。
エスはその後も細い尻尾をぶんぶん振ってはしゃぎ、とんぼやバッタを追いかけ回した。飛び跳ねるエスを見てふたりして心の底から大笑いし、笑顔の絶えないままに帰宅すると電報が届いていた。
「大使館からだ……」
部屋の空気が一気に冷えた。
エーリッヒの手は震えていた。
(ああ、ついに)
綾子は悟った。そこに、何が書いてあるかを。
それを見て、エーリッヒは深く深く息を吐いた。
「日本が、ドイツに宣戦布告した」
大正三年に勃発した、のちの世に第一次世界大戦と呼ばれる欧州大戦。ついにこの極東の島国も参戦することになった。
主の様子がおかしいことを悟ったエスが、エーリッヒの足元で鼻をピーピー鳴らしながら困ったようにうろうろと歩き回っていた。
エーリッヒはエスの頭を「大丈夫だ」と軽く撫でると、綾子をぎゅうと抱きしめた。
「苦労をかけることになる」
「大丈夫です、ずっと一緒ですよ」
言葉を失ったように沈黙を貫くエーリッヒの背を抱き返す。
「金は……しばらくは遊んで暮らせるくらいある」
「はい、心配していません、エーリッヒさま」
憔悴しきったようにソファに腰を下ろしたエーリッヒを抱きしめていると、彼は掠れ声を発した。
「大丈夫。何があっても、たとえ引き離されても、絶対に戻ってくる。愛してる、アヤ」
彼が日本に導入した機械で作られた武器が、兵器が、同胞を殺す未来が来る。
この人の苦しみを、悲しみを少しでも分つことができたなら。背負ってあげることができるなら。そう願わずにはいられない。
「はい、わたしも愛しております」
でも、綾子はわかっているのだ。己はこの人と添い遂げる。
絶対何があっても、と。
***
「とうとう、始まってしまったようだ」
煌々と水を讃える川のせせらぎを見つめながらシーグルズルが独り言のように口を開けば、かたわらの常和がそっと身を寄せた。
「どんな困難も、乗り越えてもらわねば」
「案ずるな、我も朧げにしか見えないが、少なくともエーリッヒの起こした事業は百年後もつづいている。東洋と西洋の架け橋としてな」
「そうか、なら安泰だ」
後の世、オイレンブルクの狼と鷹の紋章、それから大山の頭文字を取り大鷹商事と名を改めたオイレンブルク商会は機械専門商社から総合商社に発展、日本の経済を率いる大企業になるのだ。
「告げることは、できなんだが」
漆黒の狼の独り言は風に溶けていった。
-第一部、了-
お付き合いくださった皆さま、ありがとうございます!
ここにて、文庫本にして一冊分ほど。ひとまず第一部は終わりとなるので、完結としておきます!
お楽しみいただけた方は、よろしければ評価していただけると嬉しいです。
ここで一旦区切りとなりますが、そのうち続きを書きたいなぁと思っております。
(まだ書いてませんので……モチベアップのためにも応援くださると嬉しいです。
さてさて、第一次世界大戦が開戦しました。日本とドイツは敵国同士。
もちろん、輸入業は頓挫。
エーリッヒと綾子は結婚できてないので、エーリッヒは日本にいる限りただの敵国人です。
綾子は、エーリッヒは、そして西洋と東洋の狼の神様たちは一体どうなるのか!
あの夢は一体なんなのか!!
気になる方はブクマなどはそのままにしていただき、引き続き応援いただけたらありがたいです。




