第40話 避暑地の別荘
「まあ、このお饅頭とても美味しいです!」
日光の別荘は皇室の御用邸の近く、清らかな水を讃える大谷川のせせらぎが聞こえてきそうな閑静な場所にあった。
中禅寺湖の水が華厳の滝となり、そして大谷川となって流れゆく。奥日光に俄然興味の湧いてきた綾子であった。
もちろん、徳川家康を祀る東照宮や日光山輪王寺、名峰男体山をご神体とする二荒山神社も近い。朱塗りが美しい神橋もすぐそば。海外の著名人も泊まりに来ると噂に聞く、金谷ホテルだって目と鼻の先だった。
「美味しいだろ、湯沢屋の日光饅頭。ここに来る途中の通りの左手にあった店だ。そのうち散歩がてら買いに行こう。日光は羊羹も有名だ」
真ん中にはあんが入っていて、皮は白くてふっくら、少しだけ酸味がある風味のよい酒饅頭だ。なんとも癖になる味わいである。
管理をしている老夫婦の奥方、ヨシが買ってきてくれたものだ。
「まあ、太ってしまいそうです」
「湯波も美味しい。鮎も食べたいな。大丈夫、その分散歩に行こう。神社や寺を参拝するだけで相当坂を登ることになる。杉並木を歩くのもいい。滝も、それから霧降の高原にも行きたいな」
エーリッヒは晴れやかな笑顔を浮かべていた。敷地には馬や山羊も飼育している。馬に乗って少し散策に行くのも楽しいだろう。
(楽しい夏になりそうね……)
エスは初めて来たこの屋敷が気になって仕方ないようで、軽く水分補給をしておやつの煮干しを食べた後、部屋中をすんすん嗅ぎ回っている。
「さて、部屋を案内しよう!」
「はい!」
それからの日々は、今までと違ってとにかく外に出ることが多かった。
日光は路面電車が走っていてふらりとで歩きやすく、何より欧州人が多い。エーリッヒと歩いても好奇の目で見られることもなく、日本語が流暢な彼は商店の人とも仲良く交流していた。
妻と紹介してもらって「まあかわいらしいお姫さま」と言ってもらって綾子は赤面した。
おめでとうとたくあんを丸ごと一本もらったり、野菜をたくさんもらったりと楽しく充実した日々。
街の人々との交流も格別な体験であったが、日光は社交の場である。
別荘を構える外国人や華族も多く、時にはエーリッヒと夜会などもこなした。
もちろん、ふたりきりの時間も増えた。
日光は帝都と比べ、とにかく雷が多いのだ。
昼も多かったが、夕暮れ時から夜にかけ突如雨が降り、遠雷が聞こえ始める。そうなれば外には出られない。
「雷さまとこの辺の人は呼ぶらしい」
「まあ、神さまなのですね」
そんな日はすぐに停電してしまうので、エーリッヒと洋燈の炎を見つめながらふたりで葡萄酒を嗜んだ。
天気がよくなれば、もちろん観光にも赴いた。
霧降の滝も、奥日光の華厳の滝も、それから竜頭の滝も見た。
何より、鳥が鳴き交わす早朝のひんやりした空気の中であまりひとけのない街を歩くのが何よりも楽しかった。
「毎日こんなに楽しくていいのでしょうか?」
「君はあれだけ苦労を重ねてきた。いいんじゃないか?」
「それを言うなら、エーリッヒさまだって」
「ん? この体質じゃなかったら、君と出会えなかった。総合的に考えれば、悪くない。ノブとだって友達になっていなかっただろうし、日本に住んですらいなかったかもしれない」
手を繋いで別荘に戻れば、庭の木陰の下、しらゆりの咲き誇る下で白い狼と漆黒の狼が寄り添って眠っていた。
彼らが起きないようにそうっと屋敷に戻る。
「やっぱり、たまに抜け出してるんだな」
常和は狐から得た力で綾子への憑依を解けそうだったが、それよりも力尽きそうなシーグルズルに半分力を分け与え、普段は綾子の中で過ごすことを選んだ。
綾子ももちろん、ずっと自分に居てくれていいと笑顔で彼女の背中を押した。
そして、彼らは基本的にはエーリッヒの身体と綾子の身体で眠って力を蓄えているが、たまに抜け出してあのように逢瀬を楽しんでいるようだ。
「いい雰囲気みたいですね」
「うまくいってくれたら、悪い気はしないな」
ふたりは部屋に戻ると、アンネに飲み物を頼んで縁側に腰掛けた。
綾子がふとエーリッヒを見上げると、彼も綾子に空のような色の視線を向けていた。
「ずっとここにいるのもいいな……」
「冬、とても寒そうです」
「それはその通りだ……」
ぐ、と言葉に詰まったエーリッヒがいた。綾子はくすくすと笑みを零す。
「すみません……わかっておりますよ。エーリッヒさまが仰りたいこと」
そうっと、彼の左手に手を伸ばした。このふたりきりの確かな時間がとても愛おしい。綾子がそっと身を寄せると、エーリッヒの整った顔がゆっくりと近づいてきて、自然と唇が触れ合った。




