第39話 事件ののち
しばらくののち、綾子の父親である清が憑き物の落ちたような顔でどこか上の空で邸宅から出てきたので綾子は久美子のミイラ化した遺体を見せた。
清はその場に膝をつき、取り乱し……。
その隙にエーリッヒは綾子の祖父が着ていたという着物を借りて「妻がいなかったので車を飛ばしてきた」と今さっき現れたていで話を進めた。
屋敷の使用人は極々一部の人間しかいなかった。大半が休暇を出されていたようだ。
正子は目を覚ましたが、心身虚弱状態で、話をするのがやっと。
長男の彰人は母、久美子の遺体を見て腰を抜かした。
てんやわんやの大騒ぎとなり、駆けつけた警察の相手をしていれば気づけば夕刻になっていた。
葛木家の関係者は全員取り乱しており、中でも正子は誰よりも症状がひどかった。「死にたくない……死にたくない……」と言い続け取り調べもままならず、清もここ数年の記憶がごっそり抜け落ちていた。
一方で、久美子がエーリッヒと綾子の結婚式に出ていたこと、つい先日も出かけていたことを警察も掴んでおり、ミイラ化し、年単位で放置されていた様子の久美子の遺体も相まって怪奇事件として処理されることとなった。裏では大山男爵と妻恵美子の実家の伯爵家までが力を貸してくれ、全力で揉み消す方向に動いてくれたことも幸いした。
綾子も何度も何度も警察に呼ばれたが、「入籍できていない状態に激怒した父親に実家に連れ戻された」という趣旨の発言をし、家令や使用人などの「実家に戻ったのは今回が初めて」という証言を得て、潔白であると証明された。
なにしろ、清もここ数年の記憶が曖昧なのだ。
警察もあまりに辻褄の合わない状況に恐れを抱いたのである。
***
「よし、エス。今日も持ってきたか。いい子だ」
諸々の処理が済んだ頃には、すでに六月になっていた。
六月三十日の朝、エーリッヒが窓を開け放ったサンルームで珈琲を飲んでいると、足元にエスがやってきた。
エスは朝刊を咥えていた。
綾子がいなくなった葛木家では、あまり犬を熱心に世話してくれる者もいなかったらしい。老犬はことごとく亡くなり、まだ若いエスだけが生き残っている状態であった。
エスは虫に刺されてかきむしったようで背中にはげをこさえていたが、徐々に毛が生えてきた。近頃はエーリッヒを群れの長と弁えているのか実によく言うことを聞くようになった。
エスから朝刊を受け取って撫でてやり、用意していたおやつを差し出す。
ゆでたまごである。半分に切って器に入ったそれを隣の席の前に置くと、椅子に飛び乗ったエスは視線をエーリッヒに向けた。
エーリッヒが「よし」と言えば、エスはようやっとそれを食べ始めた。
「美味しいか? 烏骨鶏のゆでたまごだ」
「あら、エス。いいものもらえたわね」
空きっぱなしの扉から「失礼します」と入ってきたのは綾子である。
「今日は暑くなりそうですね。お昼は涼やかなものにすると伊藤さんが言っていました」
エスの他にも、綾子は信頼できるコック、伊藤を引き抜いてきた。ちょうどオイレンブルク邸のコックが一人引退したところで、人が足りていなかったのだ。
伊藤はいつも綾子に味方してくれた存在だったようだ。エーリッヒに否やはなく、彼はオイレンブルク邸の正式なコックになった。
葛木家は傾きかけていた。正子は田舎で療養しているし、損害を受けた家屋などの修繕にも金がかかる。
だが、今財政難で男爵位を返上されたらたまったものではない。綾子が男爵令嬢という身分を失うことになる。
入籍が叶わないのならば、綾子には特権階級である男爵令嬢の身分を維持してもらわなければならない。
それゆえ、エーリッヒは葛木家に資金援助を申し出た。
昨今のご時世を考えて金を注ぎ込むのは少々不安であったが仕方ないことであった。
(これから俺たちに何が起こるのだろうか……)
シーグルズルは朧げな未来が見えると言っていたが、決して語ろうとはしなかった。聞いたら早死にするらしいし、もちろん聞き出す気もない。
どこか気もそぞろな状態のエーリッヒがエスを撫でていると、綾子はすぐ隣の椅子を引いて腰掛け、先ほどエスが持ってきた朝刊を手に取った。
「え……エーリッヒさま、これ、ご覧になってください!」
目の前に広げられた朝刊に目を走らせる。
「ん?」
二十八日、澳洪帝国のボスニア州サラエボにて、皇太子夫妻が狙撃され薨去されたと記載がある。
エーリッヒはそれを手にとってまじまじと読み進めた。
「……フェルディナント大公。なんてことだ。貴賤結婚だと中傷される中、奥方をとても大切にしていた方なのに……」
ドイツがロシアに仕掛けるよりも先に、別のところで火がついてしまった。
のちの世に言う、サラエボ事件である。
エーリッヒは嘆息して絞り出すように声を発した。
「もう止められない。欧州で戦争が起こる」
「なんてこと……」
エスが心配するようにエーリッヒの顔を舐めてきた。エーリッヒは「よしよし」とエスを撫でてやる。
「外交交渉が行われるとは思うが……、厳しいな」
エーリッヒは腰を上げると窓辺に向かい、外の青空を見つめた。
抜けるほどの晴天の中、鳶が自由を謳歌するようにくるくると舞っていた。
エーリッヒは一度だけ試作の戦闘機を見たことがあった。プロペラがついており、左右に鳥のように展開する翼は上下二段組だった。
エンジン部品は、エーリッヒが日本に導入した最新鋭のドイツの工作機械で作られていた。
「これからは飛行機で戦争をする時代になる。あれが飛んだら……下から見上げたら、さながら蒼穹に浮かぶ十字架に見えるだろう。万事休す、あの世からの迎えだ」
そっと寄り添ってきた綾子をエーリッヒは片手で抱きしめ、こめかみに唇を寄せた。
かくして、事態は最悪の方向に進んでいった。
八月になると、ドイツはロシア、フランス、ベルギーにも次々に宣戦布告し、やがて日本の同盟国である英国がドイツに宣戦布告した。欧州大戦と呼ばれる大戦争が開戦してしまったのだ。後の世に言う、第一次世界大戦である。
エーリッヒは輸入業を完全停止。
一方で伸晃の工場は順調。エーリッヒはこの工場の運営と営業活動を伸晃に基本的には任せることにしており、事務的な手伝いだけをこなしていた。
エーリッヒがあまりに手を出しすぎると、有事の際に言い訳できなくなる。共同経営者ではなく、伸晃の立ち上げた会社にエーリッヒが個人的に出資している。そういうていにしてあるのだ。
「さて、アヤ。日光に避暑に行こう。エスも連れて一緒に川や滝を散策して涼もうか」
彼はどこか吹っ切れたように綾子に告げて、綾子とエス、アンネをはじめとした数えるほどの女中や使用人と共に帝都を後にした。
目指すは栃木、オイレンブルクの別荘のある日光である。




