第38話 続・狐狩り
狐に乗った荼枳尼はその鬼のように長い爪の生えた手をエーリッヒに伸ばした。
「だめ、エーリッヒさま!」
駆け寄ろうとした綾子を阻んだのは伸晃だった。
「離して! エーリッヒさまが!」
その時、伸晃が懐から取り出した何かを放つ。真っ直ぐ飛ぶそれは……。
(お札!)
バチバチバチ! とエーリッヒに触れようとした女の青白い手が手首から消し飛んだ。
「貴様!」
「大山の……陰陽師の札。よく効くな!」
跳ね起きたエーリッヒがその言葉と共に鬼切丸を抜いて斬りかかる。綾子と伸晃の後ろから、漆黒と白銀色の二頭の狼が空中を駆けるように飛び、荼枳尼の乗る狐に左右から噛み付いて制圧。
荼枳尼の鎌はエーリッヒの刀の一振りをかろうじて食い止めた。
ぎりぎりと刃と刃が擦れあって悲鳴を上げた。
「受け止めたか!」
伸晃が舌打ちと懐に手を突っ込みつつ駆け寄ろうとしたその時のことだ、エーリッヒの持つ太刀が大鎌に絡め取られて宙を舞った。
「な……エーリッヒさま!」
飛び退いたエーリッヒだが、鎌の切っ先が横に薙ぎ、彼は腰の辺りから肩口にかけてばさりと切り裂かれた。鮮血が扇のように舞う。
弾け飛んだ太刀はくるくると回転しながらからんと綾子の近くに落ちた。迷いはなかった。その太刀を手に、綾子は走った。
その時、鮮血を噴き出すエーリッヒの身体が縮んで、ぼろ切れ同然の着物を巻き付かせたままのエリックが現れて跳躍すると鋭い牙で荼枳尼から鎌を奪い取る。
喉元をシーグルズルと常和に噛みつかれていた狐はよろめき、ついには泡を吹いて倒れた。
体勢を崩した荼枳尼向かって綾子は太刀を振りかぶると、袈裟懸けに切り伏せ、そこに神狼たちが飛びかかる。
「わらわは……まだ、まだ……人間どもめ、よくも……」
そして、うめき声を上げながら。
荼枳尼と眷属の狐はさらさらと霞のように崩れ、消え去っていった。
(終わった……の?)
綾子の手から、太刀がぽろりと落ちて転がった。
「エーリッヒさま……?」
あれだけ斬られれば無事では済まない。
だが、綾子の目の前には驚きの光景が広がっていた。
人の姿に転じたシーグルズルに寄り添う、これまた人の姿になった常和。
そして、血に塗れたぼろ切れ同然のエーリッヒの着物から逃れようとのたうつエリック。その隣で尻尾をぶんぶん振って楽しそうに走り回るエス。
エーリッヒの姿は見当たらない。
(シーグルズルさまがエリックではなかったの?)
「エーリッヒ、脱がしてやるよほら」
伸晃がエリックに駆け寄った。
「エーリッヒ、さま?」
絡みつく着物から逃れたエリックは、ぶるぶると身体を震わせた。綾子に近寄って尻尾を振ってきたので、いつものように手を伸ばす。
「エーリッヒ、綾子さんに種明かししてやれよ」
呆れたように言う伸晃に対し、エリックは己の尻尾を咥えてその場をぐるぐると回り始めた。
「今更犬のふりをしてもどうにもならんぞ……ああ、綾子。申し遅れた。我はシーグルズル。オイレンブルク家の狼だ」
「シーグルズルさま、あの……エーリッヒさまは?」
常和がため息まじりにエリックに歩み寄り、猫の子でもつまむようにその首根っこを掴んだ。
「嫁御にきちんと言ってやれ」
「……はい」
エリックが言葉を発した。なんと、エーリッヒの声で。綾子の表情が凍りつく。
(エリックが、エーリッヒさま?)
「え……う、嘘。そんな……エリックは、シーグルズルさまではなく?」
「俺だ。エーリッヒだ。一緒に和室の布団で昼寝をしたのも、四阿で花見をしたのも……」
血の気がサーッと引いていくのを感じた。
信じられなくて、綾子は伸晃を見た。
「口をこじ開けて歯を見たり、耳の中を見たり、足を上げて雄雌確認したり……してたよ。綾子さんは。中身エーリッヒのエリックに」
(わたし……なんて、なんてことを?)
走馬灯のようにオイレンブルク邸での日々が駆け巡る。
胸を打ったような衝撃に、思考が全て停止する。何も考えられない。頭の中は、真っ白だ。
「我は一度だけ、一月前の戦闘でそなたの前に狼の姿で現れたが、あの夜のみだ。他は全てエーリッヒだ。そなた、エーリッヒと我が一緒にいるのを見たのは、あの時だけだっただろう?」
「アヤ……黙っていて悪かった」
しゅん、と耳が後ろに寝た。目の前にいるのはエリックだが、その口から出るのは間違いなくエーリッヒの声。
謝罪しか出てこないエーリッヒを見かねてか、伸晃が全てを説明してくれた。
地面が揺れているような気さえした。綾子はその場にへなへなと崩れ落ちる。
膝の上に、はらはらと桜が舞い落ちる。見上げれば葛木家の枝垂れ桜が満開に咲いていた。
未だ狼姿のエーリッヒが綾子に寄り添った。
綾子は癖で撫でそうになり、慌てて手を引っ込めた。
「もう撫でてくれないのか?」
鼻筋を擦り寄せられて、綾子は我慢できずにふかふかの首元に手を伸ばした。
毛を漉くようにゆったりと撫でる。
「先月、お怪我をしなかったのではなかったのですね」
「車に突っ込んだ瞬間、首の骨が妙な音を立てた。時間が巻き戻らなければ確実に死んでいた」
未だ、荼枳尼の術の影響が解けきっていないのか、屋敷から人は出てこない。
久しぶりに会った綾子に興奮冷めやらぬ様子のエスには、相手に狼の姿に転じたシーグルズルと常和が駆け回って一緒に遊んでやっていた。
一度どこかに姿を消した伸晃は、蔵の地下から大神さまと記されたあの桐箱を持って戻ってきた。
桜の木にそっと寄りかかった伸晃を見上げると、彼は目の前の景色に頬を緩めていた。
のちに、伸晃は綾子に語った。「花びらの舞う庭園で黒と白の狼と犬が楽しそうに駆け回り、夫妻がそっと寄り添う理想郷のような光景であった」と。
常和は皆に語って聞かせた。「あの狐は、己の寺だかお堂だかを失くしたのだ……ゆえに、悪鬼と化したのだろう」と。
明治政府の国策。のちの世、神仏分離令と呼ばれることになる神仏判然令。仏教中心主義は神道中心主義へと転換し、多くの寺が棄却された。
「拠り所をなくし、信仰を失い、生きながらえるため必死だったのだ。何年も何十年も転々と彷徨い、宿主を見つけたのだろう。わたくしやシーグルズル殿と何ひとつ変わらん」
荼枳尼の力を取り込んだシーグルズルと常和であったが、未だ全盛期の力には程遠い。少し休ませてくれ、と空気の中に溶けるように姿を消した。
綾子の胸元がほのかに熱くなり、箱には頭骨が戻っていた。




