第33話 狐の迎え
背に何かが触れた。
エーリッヒの意識がだんだんと浮上し、物音にやっと目を覚ました。
部屋は暗い。姿は未だ狼だ。
エリックは、昨晩は己の正体を綾子に告げることができなかった。彼女はすぐに眠ってしまったので、朝に起きた時に目の前でエリックに姿を変えて謝罪と共に全てを話そうと思っていた。
その綾子が、いない。
寝台をすとんと下りて隣室に行くと、泣きそうなほどの悲壮感をまとう綾子がいた。彼女は、例の葛木家の家宝の桐箱を抱えていた。
(それをどうするつもりだ?)
エーリッヒは声を発したつもりだった。狼の姿でも言葉を話せるはずであった。しかし、声は全く出ない。
彼は硬直した。
(声が出ない? なぜだ)
出てきたのは、ピーピーと鼻を鳴らす音だけ。
「これを持っていくわ。ごめんね、今日でお別れよ」
(アヤ、何を言って……)
昨日のあれはなんだったのだ?
愛し合ったのも、あれも演技だったのだろうか。
それを持っていくために、この部屋に来たのか?
(俺は騙されていたのか……?)
そんなわけない。どうしても信じたくなかった。
彼女は情の深くて優しい、純真で真っ直ぐな人だ。昨日の愛の言葉を嘘だとは思いたくない。
確かめたくても言葉は出ない。怪我をさせるわけにはいかない。前脚を伸ばし、太ももの辺りをつついた。
彼女は男を知らない身体だった。エーリッヒは未だ青く未熟な身体を暴いてしまった自覚があった。
(身体は大丈夫か? アヤ!)
しかし、声は出ない。
「エーリッヒさまに大切にしてもらうのよ。あの方のためなの」
そのエーリッヒとは、自分のことなのに。
彼女は扉の方に足を向けた。
(どこに行くんだ!)
エーリッヒは綾子の寝巻きの裾を咥えて引っ張った。
誰か来てくれないか。そろそろ女中や下男が起き始めてもおかしくない時間だ。「離しなさい」と言われたが、離す気はない。
「エーリッヒさまが死んでしまってもいいの? 嫌でしょ? わたしも嫌なの。絶対守ると決めたの!」
(俺が、死ぬ?)
裾がびり、と破けた。その隙に部屋を出た彼女を追う。前脚で扉を開け、廊下を走り、綾子の自室の扉を開けようと取っ手に前脚をかけたが開かない。
(アヤ! どういうことだ! 開けてくれ!)
必死の叫びは吠え声となった。扉を必死にひっかいたが開かない。
エーリッヒは自力で開けるのを諦めた。助けを乞おうと和館の方に走る。
雨戸をがりがりとひっかいてなんとかこじ開け、襖を鼻先で開け、障子を突き破りながらひたすら進む。
(ノブ! 起きろ!)
伸晃の部屋に侵入したエーリッヒは布団を咥えてひっぺがし、肩を前脚で叩き、鼻先でつついた。しかし、彼は全く起きない。しまいには襟元を咥えて揺さぶったが変わらず。顔の近くで唸ったり吠えたりしても、伸晃は起きる気配が全くない。
おかしい。流石にエーリッヒも訝しんだ。
声も出ない。屋敷の皆も寝ている。
(アヤが危ない。これは罠だ)
どう考えても、人ならざる何かの所業である。先月のあの狐のような影か。
きっと綾子は玄関を出て、門から外に出ようとするはずだ。
エーリッヒは駆けた。近道をしようと障子や襖をなぎ倒し、雨戸をこじ開け、日本庭園に出ると池を飛び越え草花を踏み荒らしながら正門の方へ全速力でひた走る。
(いた!)
門に向かう綾子の姿があった。生垣を飛び降りて彼女の前に着地する。
「エリック……お願い、行かせてちょうだい」
彼女は今にも泣きそうなほど顔を歪めて言った。
一体どうしたのだ。何があったのだ。エーリッヒに言えなくても、エリックになら話してくれるのではないか。
駆け寄ると、その場に膝をついてエーリッヒを撫でてくれた。
「わたし、あなたのこと大好きよ。おじいちゃんになるまでもっともっと一緒に遊んであげたかったわ。でもね、だめなの。わたしの代わりにエーリッヒさまをよろしくね……わたしもあの人を守るから、エリックもあの人を守ってね」
綾子はぼろぼろと涙をこぼしていた。
エーリッヒはどうしていいのかわからなかった。
「最初はエーリッヒさまにわかっていただけなくて辛かったけど……あなたがいたから頑張れたの。ありがとうエリック、賢い子。元気でね。拾い食いとかしちゃだめよ」
綾子はひとしきり狼姿のエーリッヒを撫で回し、苦しいくらいにぎゅうと抱きしめ涙を拭った。
(俺だ! エーリッヒだ!)
必死に声を出そうとするがやはり出ない。もうだめだ。彼女は確実にここを去ろうとしている。
エーリッヒは風呂敷で包まれた彼女の荷物を咥えた。しかし、綾子もそれを渡してくれるはずもなく、引っ張り合いになる。
「だめよエリック! これはだめ、持って行かないとだめなの!」
(今ここで離したら……)
綾子は後ろにひっくり返るだろう。エーリッヒの心に迷いが生まれた。
あまり強く引っ張れず、ついには結び目が解けた。
家宝の入った桐の箱と、それから書類や写真などが宙を舞った。
「きゃ!」
綾子が勢い余って尻餅をつき、エーリッヒは彼女に駆け寄った。
大丈夫か、怪我はしていないか? 心配になって擦り寄ると、額を撫で回してくれた。
綾子はその隙に飛び起きて桐の箱を拾って駆け出た。
(しまった!)
エーリッヒは完全に遅れをとった。
綾子はそのまま大門のすぐ隣の通用人口を開けて、外に出てしまった。
通用人口の掛け金は、子供などの手が届かないように二箇所ついている。上の掛け金は今のエーリッヒではいくらジャンプしてもうまく開けられなかった。
(アヤ!)
「ごめんねエリック。今日でお別れなの」
エーリッヒは何度も扉に体当たりした。開いてくれ。どうにかして開いてくれ! 何度も何度も体当たりしたが門は開かない。
ガシャンガシャンと門が鳴り、流石に心配したのだろう。一度は背を向けた綾子が駆け寄ってきた。
「だめよエリック。身体を悪くするわ!」
その時、門の前。つまり綾子の後ろに何かが現れた。
エーリッヒは顔を上げた。
(なんだ、あれは……)
綾子も気配に気づいたのだろう。はっと振り向いた。
一見、それは四頭だての馬車に見えた。
しかし、馬が引いているわけではない。先日の影のような狐が四頭繋がれているのだ。
(な……)
先月の狐。倒したつもりであったが生きていたのか。
エーリッヒが呆然としていると、門扉の柵越しに綾子が手を伸ばしてエーリッヒの頭から頬にかけて撫でた。
「お迎えが来たわ。今度こそさよならよ。大好きよエリック、長生きしてね、かわいい子」
御者台から降りてきた男は狐面を被っていた。
(ノブを連れて行こう。今のままじゃ奪還できない……)
エーリッヒは悟った。今丸腰の自分が乗り込んで、勝てるものではない。あの四匹の狐と御者にだって勝てるとは思えない。
鬼を斬ったという刀はまだ大山家から借りたままだ。あれならば多少、太刀打ちできそうだ。
綾子はキャビンに乗り込むと、名残惜しげにこちらに視線を向けて小さく手を振った。エーリッヒも必ず追いかけると尻尾を振った。
そして。
狐が走り出すと、自動車と見紛うような速さで道路を進み、瞬く間に見えなくなった。
(朝日だ……)
陽の光が目を焼いた。それがじわじわじわと上り切った時。エーリッヒは人の姿に戻っていた。もちろん一糸まとわぬ姿だ。
「なんだったんだ……」
声が出た。やっと声が出た。
何が起こっていたのだ、なぜ声が出なかったのだ。
エーリッヒは半ば呆然としながらばらばらになった綾子の荷物を拾い集めた。
一瞬手が止まる。少し古い写真だ。幼い綾子と彼女の母である。
「今のアヤと瓜二つだな……」
これは綾子の大事にしているものに違いない。ずたずたの風呂敷に包んで、彼は狼に姿を転じる。
エーリッヒはそれを口に咥え、引き絞られた弓から放たれた矢のように四つ足で駆け出した。




