第32話 幸せだった結婚生活
綾子はエーリッヒに抱き上げられ、寝室の寝台に運ばれた。
「あ、あの……すみません。今まで黙っておりましたが、胸元に妙なあざがあるのです」
そっと降ろされた時、袖を掴んでそう告げる。
甘い気配は一瞬で消え去る。エーリッヒの青い目が鋭く光って、綾子の心臓が跳ねた。
嫌悪されるのも仕方がない。告げる機会がなかったとはいえ、ずっと黙っていた綾子が悪いのだ。
(そうよね、あざなんて……)
「胸元? それは生まれつき?」
「いえ、確か、十七くらいの時に小さいほくろのようなものができてあっという間に大きくなったのです。その後は大きさや色は変わらず……」
彼は形よい眉をひそめる。
「よくないものかもしれない。見せてみなさい」
(心配なさってくださったのね……)
部屋はまだ明るいが、綾子は自ら襟元を最低限くつろげた。「ここです」と。
彼は訝しげに眉間に皺を寄せた。
「歪な形だ……触れてもいいだろうか?」
綾子は小さく頷いた。鎖骨のすぐ下に指が這う「痛みや痒みは?」と問われる。
「ありません」
「表面も滑らかだ……膨らんでもいない、感触は普通の皮膚。悪いものには見えないが、今度念のため医者を呼ぼう。知り合いにこの手の権威がいる」
きっとその医者に診てもらうことは未来永劫ないのだろうが、「ありがとうございます」とか細く答えた。
エーリッヒは寝台から一度降りると、部屋の明かりを少し落とした。綾子は羽織を脱いだ。
エーリッヒが手を差し出したので、羽織を差し出す。彼は慣れた手つきでそれを衣紋掛けにかけて、自分の羽織も脱いだ。彼は面倒そうにそれを椅子の座面に放る。
「念のため、だ。今まで何年も何もなかったのだから、きっと問題ないはず。過度な心配はしないように」
エーリッヒはぎしりと寝台を軋ませて綾子の元に戻ると、あざにそっと唇を寄せた。
熱い吐息と、柔らかな唇が肌を撫で、綾子は小さく身体を震わせた。
「さっき不安げな顔をしていたが、俺が不快に思うとでも?」
温かな舌が鎖骨をなぞる。濡れたそこがひんやりとして、えもしれぬぞくぞくしたものが背を駆けた。
「……ご不快になるかと」
「これを知っているのは着替えを手伝う女中か俺くらいのものだろう? 正直医者にも見せたくないな。見せるが」
肌に唇が触れたままくつくつと笑っていた。少しくすぐったくて、そしてなんだか心がぽかぽかとあたたかい。
今は忘れよう。明日のことは。今日でお別れだということも。
エーリッヒにぐっと抱き寄せられ、綾子はエーリッヒの衣をきゅっと握った。苦しいほどに抱きしめられる。
背を流れる髪を梳くように撫でられ、綾子も裾を握っていた手を離して広い背にそっと手を回した。
「アヤ、君はかわいいな……」
そっと促されて、綾子は少し身体を離した。首の後ろと背にするりと手が回り、唇がふさがれる。
髪をかき分け、地肌を撫でられて気持ちよさに背が震えた。
触れ合う唇からもたらされる甘い熱が、綾子の思考を奪い去ってゆく。
名残惜しげに唇を離した彼は、綾子をそうっと寝台に横たえた。
彼の手が綾子の帯をするりと解く。ぎ、と寝台を軋ませながらエーリッヒはゆっくりと綾子に覆いかぶさり、はだけた胸元に再度唇を寄せた。
「君とあの日出会えて、よかった」
「わたしも……エーリッヒさまが夫で幸せです」
エーリッヒの唇は首筋を辿った。抱いてもらえるのも、最初で最後だ。
(幸せでしたわ、エーリッヒさま)
言葉にならない感情が波のように押し寄せてきた。綾子が目を閉じると、目尻から涙がこぼれ落ちた。再び唇を塞がれ、息が上がるほどに翻弄され、まなじりの涙を優しく吸い取った。
エーリッヒは身を起こした。
「泣いているのか?」
「幸せ、なんです」
乱された吐息を整えながらやっと紡ぐと、彼はとろけるような笑みを浮かべて綾子の手を取った。指が絡む。その指先にエーリッヒは唇を寄せた。
まるで、高価な宝物でも扱うかのように。
「愛してる。アヤ」
「愛しております。心から好いております。エーリッヒさま、わたしの旦那さま」
エーリッヒはくすぐったそうに笑みを浮かべた。
彼の唇がそっと降りてきて、綾子は目を閉じた。
***
手にふかふかした何かが触れ、綾子の意識がゆるりと浮上する。
はっとした綾子は弾かれるように目を開けた。
(まだ夜明け前ね……エーリッヒさま……?)
隣を見れば、そこにいるはずのエーリッヒはおらず、驚くべきことにエリックがいた。
右手に触れた何か、それはエリックのふさふさした毛であった。
そっとエリックの背に手を伸ばして二、三度撫で、彼女は身体を起こした。身体の奥、下腹に違和感を覚えた。ひりひりしているそこには、まだ何か挟まっているような感覚がする。
「エーリッヒさま……どこに行ったのかしら」
エーリッヒの寝巻きは脱ぎ散らされたままであった。一方の綾子はきちんと寝巻きを着ていた。途中で記憶がない。きっと彼が着せてくれたのだろう。
ゆっくりと寝台から降りて、綾子はカーテンの隙間から外を見た。
まだ暗い。そうっと身体を庇いながら隣室に移動し、時計を見ればまだ日の出まで余裕がありそうだった。
エーリッヒがいないなら好都合だ。
綾子はあまりに焦っていて、彼の衣服が残されたまま姿を消していることに対する疑問すらも浮かんでいなかった。
床の間で榊が生けられている大神さまに手を合わせ、そっと両手で持ち上げた。
その時、寝室から物音がして、はっと後ろを振り向いた。
「エリック……」
エリックは少し戸惑っているようであった。
「これを持っていくわ。ごめんね、今日でお別れよ」
彼は目に見えて狼狽えているようであった。鼻をピーピー鳴らしながら綾子を前脚でちょいちょいとつついてきた。
「エーリッヒさまに大切にしてもらうのよ。あの方のためなの」
足早に部屋を出ようとする綾子の寝巻きの裾をエリックが噛んだ。
「ダメよエリック。離しなさい。エーリッヒさまが帰ってくる前にここを出ないといけないの」
彼のことだ。もしかしたら目が覚めてしまって素振りでもしているのか、馬の世話にでも行ったのかもしれない。
そっと表から出れば見つからない。
綾子は裾を手で掴んで引っ張った。
「エーリッヒさまが死んでしまってもいいの? 嫌でしょ? わたしも嫌なの。絶対守ると決めたの!」
裾はびり、と破けた。今の隙に、と綾子は部屋を出た。器用に扉を開けたエリックが追いかけてくるので、急いで自室に飛び込み、内鍵をかけた。
扉に寄りかかって息を吐く。
誰にも気づかれてはいけない。
綾子がその場にずるずると座り込んだその時、エリックががりがりと扉をひっかく音が聞こえた。
がうがうと低く吠える声も聞こえたが、やがて音が止み、静寂に包まれる。
「どうして……いつもはあんなにいい子なのに」
急がなければ。
綾子は手早く身支度を整えて、最低限の荷物をまとめた。
母や妹の肩身と、それから家宝の入った桐箱を風呂敷に包む。
エーリッヒへの手紙は机に。
「ごめんなさい、エーリッヒさま……ごめんなさい」
綾子は部屋を出た。そこに、もうエリックの姿はない。
(最後に妻にしていただけて、幸せな結婚生活でした)
昨夜の彼は本当に優しかった。綾子を気遣ってくれて、何度も「綺麗だ」「愛している」と言ってくれた。
綾子は心に決めていた。
自分のことは好きにしてもいい。必要ならば命だって捧げよう。
だから、エーリッヒに手出ししないでほしい。
あのあやかしに契約を願い出るつもりだった。
(エーリッヒさま、次は一生添い遂げてくれる本当の奥さまを迎えてください……)
そっと玄関を出る。
「ありがとうございました……」
一つ頭を下げて、門への道をひたすらに進む。
「はぁ……はぁ、なんて広い敷地なの?」
門が見えてきたその時、目の前に黒い影が躍り出た。
「エリック……」
エーリッヒの次に一番会いたくなかった相手。エリックである。




