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人狼の花嫁〜薄幸の華族令嬢は、嫁ぎ先の飼い犬が政略婚の旦那さまだと気づかない〜  作者: 矢古宇由佳


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第31話 本当の妻

 自室にて、エーリッヒは綾子のことが少々気にかかっていた。夕飯の時、綾子は口数がとても少なかった。


(なんだかあまり元気がなかったな……)


 昼間歩き回って疲れたのかもしれない。

 彼女は先月足を怪我してしばらくの間動けなかった。日中、本人も身体が鈍っていると言っていた。風呂にゆっくり浸かってよく休んでほしい。

 エーリッヒも今日は早めに休もうと思っていた。


(それにしても今日は)


「楽しかった……」


 口に出す気はなかったのだが、幸福がため息としてこぼれ落ちた。

 エーリッヒは元来散歩好き。綾子と散歩をしながら、たわいもない話をし、綺麗な桜を眺めて次の外出の約束をした。

 まさに婚約期間をまたやり直している気分だった。


 昼間のことを頭の中で反芻し、円卓に行儀悪く頬杖をついて思い出に浸りながら茶を啜る。

 貰い物の茶である。静岡の取引先が贈ってくれたものだ。

 これがまた実に美味しい。


 エーリッヒは湯呑みを置いて目の前の夕刊をめくってみた。しかし、どうも気がそぞろで内容が頭に入ってこない。

 もう寝ても覚めても綾子のことで思考回路はもう溢れんばかり。


俺の宝物(マイン・シャッツ)……こういう時に使うんだな)


 ドイツでは妻や恋人などの愛する人に宝物シャッツと呼びかける。

 彼女は知っているだろうか。多分知らないだろう。


 長らく彼女を捨て置き、ひどいことを言ったしひどい態度ばかり取ってきた。これからは大切にしたい。彼女の望むことはなんでも叶えたい。


(何か贈り物でもするとしよう) 


 その時。

 扉が叩かれた。


「エーリッヒさま、夜分に申し訳ありません。綾子です」


 エーリッヒは突然聞こえた綾子の声に驚愕し、座ったまま飛び上がって膝を円卓に強かに打ちつけた。


「いっ……! アヤ? どうした?」


 立とうとして痛みに膝を抱えて一回しゃがみ、瞬く間に痛みが引いて傷が治るのを確認した後に扉を開けた。


 そこには。

 寝巻きの上に一枚羽織りものをした綾子が不安そうに立っていた。

 髪は結われておらず、下ろしたままの洗い髪。

 少し潤んだ目で見上げられて、エーリッヒは狼狽えた。

 咄嗟に時計を確認する。


(まだ十時だ、問題ない……)


「どうした? 身体を冷やすから入るといい」


 エーリッヒは動揺を抑えながら彼女を迎え入れた。


「ありがとうございます……まあ、和室なのですか?」

「畳の方が落ち着くし、どうも地べたに座りたくなる。似非えせ西洋人だ」


 綾子は興味深そうに違い棚と床の間、それから刀掛けを見回して、エーリッヒに促されて座布団の上に腰を下ろした。ちま、と行儀よく正座している。

 その姿がただただ、ひたすらに愛おしい。


「何かあったか? どうした?」

「お顔が見たくなって……」


 彼女は俯いて恥ずかしそうに言った。


 その頬は朱に染まっている。


 その蚊の鳴くような声は、「こんな時間に殿方の部屋に来るなんて」と言外に語っていた。来ればいいではないか、彼女はエーリッヒの妻なのだ。

 エーリッヒは心臓を鷲掴まれた心地であった。


「俺も会いたかった。おいで、俺の宝物(マイン・シャッツ)


 腕を広げると、彼女は腕の中に飛び込んできた。


「かわいいな、アヤ。いいんだ。遠慮せずに来ればいい」

「ですが……新聞を読んでいらっしゃったんですよね?」

「あんなの暇つぶしにめくっていただけだ」

 

 背に流れる髪を撫でる。洗ったばかりなのか少し湿っていた。

 手触りのいいまっすぐな黒髪。

 匂い立つ湯上がりの温かな肌に理性が試された。


 すり、と首元に擦り寄られて、エーリッヒは唾をごくりと飲み込んだ。

 もはや我慢ならなかった。


「アヤ。首を上げてほしい。こちらを見てくれ」


 顔を向けてくれたその唇を奪う。まるで神に乞うような心持ちで下唇をそっと舌先でなぞると綾子は迎え入れるように口を薄く開いた。


 吐息と舌が絡む。甘い熱を伝えるように互いの唾液が混じった。

 控えめにエーリッヒの肩を掴んでいた綾子の手に力が入る。

 彼女なりに慣れないキスに応えてくれている歓喜に心が震えた。ふたりは互いの求めるままに唇を求め合い、ついに唇が離れた。


 鼻先は未だ触れそうな程近い。


(だめだ、帰ってもらおう)


 このまま押し倒して貪り尽くすわけにはいかない。

 彼女は疲れている。そして自分は妙に浮ついている。


 綾子は男爵家の娘だ。普段の初々しさに鑑みても男性経験はない。

 この先に進むならば、もう少し気遣ってやれる時にするべきだ。


(今の俺はただの浮かれ馬鹿野郎だ)


 エーリッヒはそっと身体を離した。


「夕飯の時、疲れているように見えた……今日はゆっくり休むといい」


 うっすらと色づいた唇が目に毒だ。手触りのいい髪を撫でながらエーリッヒは努めて冷静を装ってそう告げる。

 このままいただいてしまえ、夫婦だろうという悪魔の囁きが頭の片隅に響く。日本には据え膳食わぬは男の恥と言うではないか。


 それをなんとか振り払う。

 いや、振り払おうとした。


 邪魔をしたのは綾子であった。

 彼女は胸元に飛び込んできた。エーリッヒの首元に齧り付いて言う。


「エーリッヒさま。あの、お願いです。朝までここにいさせてください」


 一瞬、エーリッヒは綾子が言っていることを理解できなかった。 


「わたしを本当の『妻』にしてくださいませ」 


 エーリッヒは呼吸を忘れた。


 彼は覚悟を決めた。

 綾子に全てを知ってもらおうと思ったのだ。

 男としての自分とそれから人狼としての自分、全てを。

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