第30話 エーリッヒとの花見
上野公園にて。
上野東照宮の近くで一行はむしろを敷いて弁当を広げ、まずは持ってきた日本酒で乾杯した。
花見をするなら、やはり日本酒だ。
一般的な日本の華族ならば女中や下男等使用人は決して一緒に食事はしないだろうが、エーリッヒは皆との乾杯を望んだ。
重箱は四段重。
もちろん、皆にもたくさん食べてくれと言った。
エーリッヒは先ほどすでにエリック用の花見弁当という前菜を食べてそこまで腹は減っていない。彼は花見酒を楽しもうと決めていた。
「満開ですね……綺麗」
(いや、君の方が綺麗だ)
「奥さまの方が美しいです」
言おうとしたセリフをアンネに先に言われてしまった。なんということだ。
仕方なしにエーリッヒは杯を傾けた。少し甘めで風味のいい酒だ。
綾子もきっと飲みやすいに違いない。
「今日、とてもお天気がいいですわね……きっと、エーリッヒさまの日頃の行いがいいからでしょう」
「いや、君の行いがいいからだ」
(俺の日頃の行いは最悪だろう……)
仕事では誠意のないことは一切しないエーリッヒであったが、綾子に対しては罪悪感しかない。
嘘という真綿で今にもぎりぎりと締め殺されそうだ。
「エリック、きちんとお留守番できてますかね……」
エーリッヒは酒を噴き出しそうになった。エリックは目の前にいるのだ。人の姿で。
「エリックは心配しなくて大丈夫です。お酒をどうぞ」
アンネは綾子の杯に酒を注いだ。
「まあ、ありがとう。そうね。あの子のことだからきっとお庭でお昼寝してるでしょうね。いつも一匹で好きに過ごしているようだし」
綾子には、エリックは敷地内で放し飼いしているからいつもいなくなる。そう家令の四郎が伝えていると聞いていた。
エーリッヒはまずは迷わず卵焼きに箸を伸ばした。取り皿に一度置いて、口元に運ぶ。
(少し味が違うな)
既に味見済みだ。そう思ったが少し味が違う。
こちらは出汁と醤油の風味。エリック用のあれは……もっとまろやかで優しい味だった。
「その卵焼き、大丈夫ですか? お料理なんて久しぶりだからちょっと失敗してしました」
「何が失敗か全然わからない。美味しいよ」
「本当ですか? よかったです」
ふと気になってエーリッヒは綾子に問いかける。
「エリックにも弁当を作ったんだろ? 何を入れたんだ?」
「小さめのおにぎりに、れんこんと筍を茹でて鰹出汁で炊いたものと、あとは焼いた海老。卵焼きは牛乳を入れてあげました。エリック用の硬めの卵は巻きやすかったんですが、そのだし巻きは緩いからちょっと崩れてしまいました」
アンネは綾子の死角でエーリッヒを見ながらこっそり笑っている。
(やめてくれ……)
「奥さまの手料理、きっとエリックは幸せです」
「そうかしら、喜んでくれたと思いたいわ。お行儀のいい子だから少しわかりにくくて。あの子を幸せにしてあげたいの。大型犬って十年くらいしか生きられないでしょう? 特にあの子は大きいからどのくらい生きられるのか……楽しくて幸せで充実した毎日を提供してあげたいわ」
エーリッヒはエリックに嫉妬しそうになった。エリックは自分なのに。
綾子が犬だと思っているエリックは実は存在しないのに。
(参ったな……)
どうすればいいのだろう。
このあと、エーリッヒは皆に小遣いを与えて好きに楽しむように言い、綾子を散歩に誘った。
露天も出ているし、皆楽しく過ごしてくれるだろう。
「わたしたちがいない方が、皆さんのびのびできましょう。わたしも少し歩きたかったですし」
「足はもう大丈夫そうだな?」
「はい。ですがしばらくあまり動かず過ごしていたので、身体が鈍ってしまいました」
綾子はエーリッヒに優しい笑みを向けた。
人にはわからないくらいうっすらとしているが、桜の花の香がエーリッヒの鋭い鼻にわずかに嗅ぎ取れた。
ほんのりと甘くて、そしてバラのように上品。
綾子のようだと思った。
ふたりは不忍池の方に足を向けた。
途中の階段で、エーリッヒは自然に綾子の手を取った。
「ありがとうございます」
「後ろじゃなくて、隣を歩いてくれ」
***
エーリッヒは一緒に歩く綾子を気にかけてくれた。
「後ろじゃなくて、隣を歩いてくれ」
「ですが……」
「俺はひとりで散歩に来たんじゃない。君と話しながら歩きたい」
「……はい!」
嬉しくて足取りが弾んだ。
風が気持ち良く、本当にお花見日和と言った陽気。
弁天堂への参道にはさまざまな露店が並んでいる。
(確かに、みんな見てるわ……)
エーリッヒはこの日も和服姿であったが、飛び抜けて背が高くて皆の視線をさらっていた。綾子は彼を見上げて、逆光に目を細める。
「こうして見ると、エーリッヒさまって本当に身長が大きいですわね」
「そうだな。だが、アメリカ人には敵わない。あの国の人間は本当に皆大きい」
「そうなのですか!」
「ああ。俺はおそらくいいものを食べて育ったからドイツでもそれなりに大きいが、アメリカの富裕層には敵わない」
確かに黒船が来航した際にも、日本人はアメリカ人の大きさに慄いたと聞いている。
「アメリカに行ったら私も普通なのでしょうか……」
「ドイツでもまあ普通くらいか? 日本人は飛び抜けて小さいからな」
ふたりで弁天堂をお参りし、裏手で不忍池を泳ぐ雁を見る。人通りもあまりなくひっそりとしていた。鴨もいるが、雁はそれよりかなり大きい水鳥だ。
エーリッヒはそっと綾子の手に自分の右手を絡ませた。
綾子の心に温かい何かが灯った、そっと手を握り返す。エーリッヒの目元に笑い皺が浮かんだ。
「来月にでも、動物園に行こう。六月になったら朝早起きして蓮の花を見よう」
「はい、楽しみにしております!」
「俺も楽しみだ。ここの蓮の花を見るのが毎年楽しみなんだ。君と一緒ならもっと楽しい」
(嬉しい……)
結婚相手がエーリッヒでよかった。本当によかった。
彼は周りをちら、と確認し、誰もいないことを確認するとそっと片手で抱き寄せてきたので、綾子もおずおずと背に手を回して抱き返した。
きゅ、と綾子の身体に回された腕に力が入ったことに気がついて、なんだか心がくすぐったい。
しばらく鳥や池の周りに咲く桜を見て周り、皆も心配するだろうからとふたりは上野東照宮の方に戻った。
***
「楽しかったわ……」
充実した一日だった。
こんなに楽しくてどうしよう。これほど幸せでいいのだろうか。
夕刻、屋敷の自室に戻ってきた綾子は持ち歩いていたハンドバッグからハンケチを取り出した。その時、はらりと一枚の紙が落ちた。
(何かしら……)
屈んで絨毯の上のそれを拾う。そして、綾子は驚愕に目を見開いた。
そこには「拝啓、お姉さま。今夜は満月。明日の朝、日の出とともにお狐さまがお迎えに来るわ。これを伯爵に言ったらあの人を殺す。約束を違えても命はない。いいこと? 家宝を忘れずに。ごきげんよう。正子」とあった。
背筋が凍りつく。紙を持つ手が小刻みに震える。綾子が唇を青くして立ちつくしていると、ぼっと小さな音を立てて手紙に青い火がついた。
「きゃ!」
綾子はそれを取り落とす。すると、絨毯の上に落ちる前にそれは跡形もなく燃え尽きた。
「やっぱり……」
あの時襲いかかってきたおかしな影は葛木家の狐だ。
エーリッヒを守らなくてはならない。
家宝はエーリッヒの部屋にあると聞いていた。忍び込んで盗むほかない。
「エーリッヒさま……」
綾子は箪笥や収納から最低限の持ち物を引っ張り出した。
母親の遺品である。
もうこの家にはいられない。しかし、あの家宝は契約の証だ。
婚姻前、綾子はエーリッヒと契約書を交わしていた。家宝と共に嫁ぐことと契約書に記されていたことを今もはっきり覚えている。
婚約者を失い、婚期を逃して貰い手のいない綾子を拾ってくれたのはあの家宝があったから。そして、男爵家の娘だったから。
(いくらエーリッヒさまが優しくても、わたしはあの家宝のおまけに過ぎないわ、持ち出して実家に帰ったら……そんな勝手な振る舞いをしたら)
離縁するほかないだろう。
綾子とそっくりな、亡き母の若い頃の写真、母と瓜二つの双子の妹——叔母や家族と写っている写真、それから日記や母と叔母の交わしていた手紙。亡くなった妹との写真。
最低限をまとめて、それからエーリッヒへ手紙をしたためた。
謝罪と感謝。
詳しいことを書き綴ることはできないが、それでも幸せだったこと。それから、心から愛していることを。
もっと一緒にいたかったことを。
そして……。
その時のことだった。
扉が叩かれて、綾子は驚いてびくりと身体を震わせた。この声は最近働きはじめた若い女中だ。
「はい、今参ります」
夕飯の準備ができたらしい。
食欲なんてどこかに消え失せてしまったが行かなければ。
綾子は椅子から腰を上げた。
食事を終えたらこの手紙の続きをしたためることとしよう。




